先週の14日(金曜)15日(土曜)16日(日曜)は札幌に入っていました。亡くなられた稲田さんを見送るためでした。事情があってご報告が遅く
なりましたが、稲田さんと私の関係や距離感をご理解いただければと思い、
ここにアップさせていただきます。
稲田さんが逝去されたことを知った時に、私は稲田さんにむけて何らかの誠
意をお示ししたいと考えました。私と稲田さんとの関係はわずか6年ぐらい
の期間しかないのですが、実にいろんな事をご相談しながら動いたので、そ
の感謝の気持ちを表したかったのです。
ヒトはその時期その境遇に合わせて、親しい友人や同僚に恵まれるモノだと
考えて来たのですが、この6年間の稲田さんは、私にとって特に大切だと感
じていた5人衆の一人でもありました。この5人衆は、小学生のころからい
つも私自身が、その時々のこころの友人に贈って来た敬称のひとつです。
さて、そんな大切な友人を亡くしてから、私は稲田さんに何が出来るのだろ
うと考え込んでしまいました。考え尽くした結果、私個人が今現在一番足り
ないと感じて、また必要だと望んで来た、自分の体力で誠意をお示ししよう
と考えました。簡単に言えば、それは「歩く」ということでした。この半年
の間、少し歩いては貯め、また歩いては貯蓄して来た体力を、おしげもなく
使ってしまおうとなったのです。
私なりのつたない解釈ですが、これは1秒でも長く祈りを捧げる仕草と似通
った、祈りにも近い「歩き」をすることだと考え着いたのです。
1月14日(金曜日)・・・
通院中の病院から直接羽田に向い、この日の体力がすれすれの状態でホテル
に着き、通夜の席には出席ができませんでした。
1月15日(土曜日)・・・
ホテルの朝食を1番早くいただき、雪でいっぱいの道を手稲の山の方角へと
歩き始めました。道路側には高さが2メートルぐらいの除雪された雪が積も
られて、住宅側にはどこも私の背丈より高い雪が山になっていました。路上
はパウダー状の柔らかい道と、アイスバーンで車のワダチのでこぼこな道があって、雪道に慣れていない私には歩くだけでもたいへんだったのですが、
ときどき屋根から落ちて来る雪のかたまりにはおどろかされながら歩いて行
きました。
稲田さんと初めて会ったころから順番に彼を思い出していくと、記憶の中で
彼はいろんな表情であらわれてくれました。下の文章は、大手企業の社内報
に出された文章で、インタビューの席にライターとして参加したのが稲田さ
んで、この文章も稲田さんがまとめられたものです。このインタビューの時
が稲田さんと最初にお会いした時でした。場所は札幌駅の横のホテルの一室
でした。大手企業の社長と秘書二人と一緒に稲田さんも来られて、社長と私
のインタビューを記録していたのが稲田さんでした。
【とある社内報1・2】
http://www.peace2001.org/2006/main/bow/20060110_bow_01.html
http://www.peace2001.org/2006/main/bow/20060112_bow_01.html
今回は、その時に使用したホテル会合のことを思い出しながら、札幌駅に近
い場所から7時半に出発したのですが、2時間歩いた場所でタクシーを拾う
ことにしました。葬儀が10時からということでこれ以上は歩けない、間に
合わないと考えたからです。
会場には3分前に着きました。会場では長靴は私だけ、しかも防寒の山用の
服で参加したのも私だけでした。
受け付けは神戸から来られた清水さんご夫妻と、ガストン・ネサーンアカデミー設立準備室の吉武氏が担当されました。友人の挨拶として萩原 優先生
が最初にご挨拶されました。
ご親族と一緒に火葬場にも行かせていただきました。遺骨になるまでの1時
間半を私は火葬場周辺の雪の原野を歩きました。まだまだ歩きが足りないと
考えていたからです。途中稲田さんらしい煙があがって行く様子に手を合わ
しました。
遺骨を集めたあと、元の葬儀をした会場にマイクロバスで戻ったのですが、
これから親族にむけて初七日などのご説明があるとのことで、私は1人別れ
て、今度は札幌駅の方角へ帰りも歩くことにしました。まだまだ稲田さんと
二人の世界が足りないように思えて、日が暮れるまで歩くことにしたのです。
1月16日(日曜日)
この日は関東へ帰る日です。やはり朝食を一番にとって、7時半から、一路
新千歳方向に向けて歩き出しました。まだまだ歩き足りないと感じていたか
らです。雪祭りの準備が始まった大通り公園を横切って、すすきのを過ぎて
苫小牧までつづく36号線沿いを歩くことにしました。
午前中は特に寒く、歩道はどこもアイスバーンになっていました。豊平川の
橋の上は靴の跡が全部凍っていて、でこぼこに足を何度もとられました。小
股で歩いていた私でも2回も転倒をしてしまいました。
稲田さんはよくこんな寒い街にすんだものだ。と感心しながら彼が何度も通
ったであろうこの36線を私はひたすら歩いて行きました。道の途中に何回
もバス停があったので、私はメガネをとって、小さな文字をみることにしま
した。そこで分かったのですが、札幌駅から札幌ドームまで、18個のバス
停があったのです。私はすでに10個のバス停を通過していたようで、フラ
イトの時間から逆算してもこの18個目の札幌ドームが時間の限界だと理解
させられました。
実はこの時にもうひとつ大切なことに気づく必要があったのですが、この時
はすでに体力がなくなり気が呆然としていましたので、そのことに気づくこ
とができない自分になっていました。
なだらかな月寒の登り坂を越えた辺りで、道の先に大きな雪山が見えて来ま
した。と思っていたら、一歩づつ近づくにつれてそれが札幌ドームだと分か
って来ました。ドームの手前からは少し急な登りになっているのですが、そ
れはまるで冬山の頂上を目指しているような、体力の限界に近い自分を感じ
るような坂道となっていきました。
札幌ドームの横のバス停に着いたら、1分もたたない内に新千歳空港行きの
バスが着いたので、私はハーハーと吐息を出しながらバスに乗り込みました。
空港に着いて私が最初にやったのは、診療所をさがすことでした。案内所や
ガードマンにも聞いたのですが、この日は休日なので診療所は閉まっていま
すと言われて、困り果ててしまいました。この空港にはたくさんの人が働い
たり、出入りする人が多いにも関わらず、人の一番多い休日の日に、医師が
一人もいないのです。これはおかしいと大きな声で訴えたかったのですが、
すでに私の体調はおかしくなり、端っこの誰も来ない場所で、床に横になる
しかなかったのです。
この日の夜、何とか関東の家まで帰った私は、夜の11時頃に呼吸ができな
くなりました。心不全になる少し前に判断して、救急車を呼んで緊急入院と
なりました。
私はこの「歩いた」経験で「生きる」と「死ぬ」の境目を感じることができ
ました。実に、ざっくりとさっぱりとあっさりとした自分の生死の境目を見
たような気がしています。
・・・・・10日がたちました。また少し体力が戻って来たので、稲田さん
のサイトのラジオに彼の声を聞きに行きました。2006年から始まったこ
の番組は、全国でもめずらしいガン患者を対象にしたラジオ番組です。その
第一回の時から私も参加していました。
この時の私は、番組の中で何気なく伝えているのですが、すでに満天の星が
見えなくなっていた頃でした。
【じあいネット】2006年10月12日・第一回放送分
http://www.ji-ai.net/radio/y2006.php
稲田さん よくやったね! よくやった!もういっちょう よくやった!
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