つい先日のことですが、2年間メールで文通をやって来た人が亡くなり
ました。この人は長野の人でガンになられてから、いろんなサイトを探
されたのですが、何故か私の元に来られた方でした。
彼は60代後半の男性で、週に一度ぐらいメールでいろんな感情を正直
に私に打ち明けてくれました。だから一度も会っていないのですが、私
のこの2年間の中の、一番の親友とも言える人でした。
彼が私に問いかけて来たのは、ガンの治療法や免疫をあげる方法などの
話しではなく、死に対しての考え方や生き方やこころ構えなどについて
の話しが中心でした。
こころに響く親友っていいですよね!この2年間の私たちは、まるで時
空を越えたかのように、彼が好んで空想の会合の場所として選んだ信州
の深い山の頂きや、小さな川のほとりや、大きな樹の下で深い話しをし
ていきました。
これは、難しい表現になるのですが、メールで合う時間と場所を事前に
約束して、その時間が来ると実生活では何もせずに、その場所に行って
会話をすると言う方法です。(分かるかな?)
そんな彼と私が一番意気投合した話題が、紀元前の頃に老子がみつけた
とされる『無為自然』と言われる概念でした。この『無為自然』の世界
観の中で2人は2年間もいっしょに暮らしたと言える仲なのですから、
それはそれは豪快な生き方を、二人で存分に満喫したという感が残って
います。
さて、みなさんに少し想像をして頂きたいのは「時空を越えた」二人が
生活をしていたこの「2年間」です。
もちろん二人にはそれぞれ、はがすことが難しい実生活があったのです
が、そこから離れた空想の空間で、「今日は上高地の一番奥の牧場跡地
で焚き火しながら話しをしましょうか」とか、「安曇野のわさび園の横
の梓川の河川敷でテントを張って、バーボンを飲みながら話しをしまし
ょう」とか、実に具体的に話しをしていったのです。
その甲斐があって、ふたりでやりとりをするようになって3ヶ月もした
ら、実生活と比べてみても「時空を越えた」二人のバーチャルな生活の
方が、真実味を帯びてきてしまったようだとよく笑い合ったものです。
たとえば、これは二人で大笑いをした会話の一つなのですが、待ち合わ
せをした焚き火の場所に、彼がお土産として持ち込んだモノを言い当て
た時のことです。
彼は私に問いかけました「バウさん、今日の土産は何だと思う?」
私は答えました「よーし、ほんなら当ててみましょうか?」
私は焚き火の場所に到着したばかりの彼が、病院から抜け出して、ここ
まで来たルートを空を飛びながら辿ってみることにしたのです。
それで分かったのは彼が田舎の小さな商店に入って「こてっちゃん」を
探し当てて買って来たことでした。「こてっちゃん」ですよ!あの「こ
てっちゃん」を言い当てたのです。この時は二人で大笑いでした。
さて、この2年間の中の「はがすことが出来ない実生活」と「時空を超
えた生活」、どちらが真実に近いのでしょうか?
私には「時空を超えた生活」の方が真実味があるように思えてなりません。
今でも時おり彼が好きな信州の風土の中で、私と彼はコンタクトをしてい
るのですが、その会話の中から生まれる『無為自然』の概念は、どんな本
にも書かれていない内容ですし、もちろん私の思考の中から生まれようも
ない斬新な言葉が多く出て来て、ゆがみの多い実社会の中のどんな現象よ
りも、私を納得させる力があるのです。
さて、最近届くメールの中で、多くの人から問いかけがあるのが「バウさ
んは最近何をしているのか、さっぱり分からなくなった」と言うものです。
メールを読んで、この話題になるたびに私はニヤッとしています。
実のところを言うと、私は何もしたくないからです。今までの表面的な私
しか見ていない人には、この私の実態はなかなか理解できないでしょう。
人より多くのモノをつかみたい。出来るだけたくさんの知識を身につけた
い。より多くの人と知り合いたい。これらは、本来の私には一切ないもの
です。
ところがそれらを追い求めているのがバウさんだ。と思う人から「バウさ
んは最近何をしているのか、さっぱり分からなくなった」と、届くのです。
最近の私の決まり文句は「私は、なにもしてないよ!」と言うものです。
ですが、何もしていないと言いながら、何もしていない訳でもないのです。
どんどん身辺を簡素にして行き、自分でしか出来ないであろうと思われる
ことだけを、最大限にやっているだけなのです。
嬉しいですね。こんな心境にまで来れたと思えるのは。
これは、人より多くのモノをつかみたい。出来るだけたくさんの知識を身
につけたい。より多くの人と知り合いたい。と言う概念からはずれたから
かも知れません。
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