1999年2月21日から『108の祈り』がはじまりました。私が最初の山として選んだのは神戸にある再度山(ふたたび山)でした。この山は空海が中国へ旅立つ直前に立ち寄った山で、その後中国から帰った時にも立ち寄ったことで、再度山と名付けられた山で、頂上付近には空海が岩場に刻んだとされる、彼の故郷の讃岐の方向に向いた亀の彫り物がある山でもあるのです。
私は再びこの山に戻れることを祈願してこの山を『108の祈り』のスタート地点としたのです。
さぁ、神戸から『108の祈り』の山登りがはじまりました。2番目からの山は、まだ2月ということで、雪が積もっている山が多いので、雪の少ないあまり標高が高くない山を探すために、冬の日差しが暖かい関東をめざして駆けて行きました。
そして雪の状態を見て、この山だったら登れると判断したのが箱根の最高峰の神山でした。この神山は箱根神社のご神体山とされている山で、以前、箱根で二番目に高い駒ヶ岳にある箱根元宮から、この神山越しに見た富士山の美しさを覚えていました。
祈りの台に立ってみて、古代からいろんな人がこの雄大な景色の中で祈りを捧げていたのだと感激したことがあったので、その風景を見ることを楽しみにしながら、私の人生ではじめての本格的な雪山登山に挑んで行ったのです。
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私が日本百名山に登ろうと決めたのは、阪神大震災からちょうど4年目を迎えた1999年1月17日のことでした。
この時思いついた山登りというのは、単に山に登りたい、憧れていたから、好きだからというものではなかったのです。山に登って、あやまりたいと言う複雑な動機から生まれたものだったのです。
私は23万キロというオゾン層の高さまで自分の意志と体を使って登って行って、大気圏に漂っているオゾン層にあやまりに行こうとしていたのです。
日本百名山の標高をすべて足し算しても、22万キロしかなかったので8座の聖なる山を加えて標高23キロまで伸ばし、108の山の頂上、オゾン層の高さまで目指すことにしたのです。
それも、まだ残雪が残っている2月から始めて、次ぎの雪が降り始める11月までの9ヶ月で108の山を目指そうとしていたのです。一月を30日として9ヶ月というのは270日間ですから、2,5日にひとつ2000m,3000mを越える山を登ることになるのですが、途中で大雨もあるでしょうし、台風も来るでしょうから、とりあえずの予定として「二日に一座」を目標にしていきました。
これはひょっとすると、命がけになるかも知れないと覚悟をしていました。
その当時、この私の動機については、誰にも話しませんでした。もしこのままみんなに話しをしたところで、誰にも私の本意を汲み取ることが出来ないだろうと思っていたからです。そこまでしてでもオゾン層を何とかしたいと思っていたのです。私があやまりに行けば、何とかなるかも知れないと本気で考えていたのです。
阪神大震災までの私は、オゾン層保護活動をしていました。
今でこそ、エコや環境という言葉を国の機関やメディアや企業までもが重点政策、主題となるテーマ、なくてはならないビジネスチャンスと唱えているのですが、私がオゾン層保護活動をやり始めた1992年の頃は、そんなスマートでにぎやかなモノではありませんでした。
全国津々浦々を見渡しても、このオゾン層保護活動をやっている人が、まだ数人しかいない状態だったのです。その中心にいたのが、高崎経済大の教授だった石井史先生だったのです。彼女が日本のオゾン層保護活動の先駆者でした。
彼女と始めて出会ったのは、彼女が高崎経済大の近くのちっぽけな平屋の民家を仮事務所にしようとして借りた直後でした。彼女は、たずねて行った私を鷲掴みするかのように、熱く話し出してくれたのです。
オゾン層の科学的な検証。気象学的な検証。特定フロンの塩素ラジカルについての検証。NASAのデータ。世界各国の環境政策。そしてもちろん遅れている日本の政策。やるべきこと。やりたいこと。私たちが忘れてしまったこと。
始めてあったにも関わらず、とうとうと6時間も熱い話しが続いたのです。
その頃の私は二つの立場をもっていました。一つは株式会社の社長です。そしてもう一つは、その社長職をあまり意味のないモノに思わせていたカヌーの世界でした。
その頃の私は小さな株式会社の社長をやりながら、実はその先の人生の舵取りを違う方向に向けようとしていた時期でもありました。
と言うのも、若い頃から自分の会社を一度はつくってみたいという目標のようなものがあって、あまりそのことを深く考えたわけでもなかったのですが、若気の至りとでも言いましょうか、その道に邁進して行ってしまったのです。
こういう書き方をすると、会社経営に失敗したのかと思う人がいるかもしれませんが、そうではありません。会社はその先も順調にやっていけたのですが、経営者になってみて、どの方向を眺めても、あまり魅力を感じるものがなかったのです。
そんな頃にカヌースクールをやり始め、そのスクールに来てくれたゲストの一人から「オゾン層が危ないってことで、群馬で動いている人がいる」と言う話しを聞いて、石井先生をたずねて行くことになったのです。
石井先生を紹介してくれたカヌーのゲストというのが、関東の大学の教授で、紹介文の中で私のことを大げさに紹介されたようで、石井先生は私と出会った瞬間から、力も展開力も説得力も何もない私を「かついで」くれたのです。
この日から群馬通いが始まりました。下働きをどんどんこなして行きました。
そしてやっとその平屋の民家に全国初の「フロンガス回収をすすめる会」を誕生させたのです。
その後、数ヶ月間を石井先生とがんばった結果、群馬県は全国のオゾン層保護活動のモデルともなる環境県、パイロット県となっていきました。行政と企業を私たちがつなぎ合わせていったのです。市民活動がつなぎ合わせて新しいモデルが出来たのです。
群馬県フロン回収事業協会の沿革:
http://www.gunma-flon.or.jp/outline/history.html
その数日後のことですが、石井先生から群馬県でやりだしたフロン回収システムを、まだ誰も知らない、西日本に広げてほしいと、私は託されました。簡単に言えば、西日本に移り住んで、オゾン層保護活動を展開してほしいと言うものでした。
これは、たいへんなことです。この話しで私の生活が一挙に変わるかどうかの瀬戸際に立たされたのですから。これは、家族全員の生活問題でもあるし、会社の従業員や得意先や、カヌー仲間にまでおよぶ問題なのです。
ところが、石井先生はあっけらかんとしていました。どんなにもがいても、あの人だったら地球のために引き受けてくれるだろうと、高をくくっているように見えました。
結局、この話しを聞いてから2ヵ月後ぐらいでしたでしょうか、私はそれまでの生活スタイルをひとつづつ変えていって、車一台で西日本に入って行くことにしたのです。(えらいでしょ!)
大阪で最初に仮事務所にしたのが、新御堂筋線が淀川を渡る橋の下に設営したテントでした。節約のために、関西で動く拠点をテントとしたのです。このテントで3ヶ月間暮らしながら関西の市町村役場をまわったり、市民団体との情報交換をやっていきました。
そのうちに、京都の学生が京大の敷地の中に私の部屋をつくってくれて、京都をまわる時は、バウルームと名付けられたその部屋に泊まらせてもらえるようになりました。奈良では有機系の農家の集荷場の倉庫に泊まらせてもらえることになりました。
九州の方にも出向きましたが、九州の人たちはフロンガスの回収運動を広める活動になかなか動き出そうとしませんでした。四国にも何度も行きましたが、四国は九州より動かない人たちばかりでした。
無念だったのですが、あまり成果をあげることなく10ヶ月が過ぎてしまったのです。そして私の資金が底をついて、関東に帰ることになりました。
家に帰ってまだ小学生だった息子に、「情けないけど、お父さんは何も出来なかった。お金もなくなったから帰ってきた」と正直に伝えたのですが、息子はそこで怒り出したのです。
「お金がなかったら家を売って、やったらいいのに」と言ってくれたのです。
この時、いろんな問題があったのですが、結局家を売ることにしました。私は実は働き者なんです。20代のうちに何とか家を建てたいと思って、29歳で家を建てるまで働きづくめの生活をしてきました。その家を売ることになったのです。それも地球のために。
決め手となったのは、息子の「地球ひとつと家一軒とどっちが大切なん?」と言う問いかけでした。この言葉で私のそれまでの価値観が一瞬にして打ちのめされたのです。
家を売るまで3ヶ月かかりました。その間、私はそれまでの10ヶ月の反省をしていきました。
そして、それまでの私は、いつも一人で被害者側に立っていたのではないかと気づいたのです。その被害者意識で行政にも文句を言うし、議員さんにも立て続けの文句を言うし、その結果、実はだれにも相手にされていなかったように思えてきたのです。
そこで、頭の中で考え方を一変させました。提案型にして、その提案を誰にでもやりやすいように工夫することにしたのです。それとゲーム型にもしていきました。
そしてもう一つ、それまではこういうモノは、「公害」と呼ばれてきたのですが、「環境問題」と言う言葉で表現していく。それと「オゾン層保護活動」と言う言葉を新たにつくって、スマートに広めて行くことにしたのです。
これは、責任の取り方で微妙な立場を取り合っていた企業や行政や市民活動家に対して、何か新しい動きが始まるような予感を持たせる言葉として、みごとに受け入れてもらえる言葉となっていきました。
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ここで、このオゾン層保護の基本的な背景を説明しなくてはなりません。
1985年に、オゾン層保護のための国際的な対策の枠組みを定めたウイーン条約というものが採択されました。
その次に、このウィーン条約に基づいて、オゾン層を破壊するおそれのある物質を特定して、これらの物質の製造、消費及び貿易を規制することを目的とした、モントリオール議定書が1987年に採択されたのです。
この議定書により、特定フロン、ハロン、四塩化炭素などは、1996年までに全廃、その他の代替フロンも、2020年までに全廃することが決められました。
ここで大切なのは、人類が始めて人工的に製造した工業製品を、国際間の同意を得ながら製造中止(コックを閉める)としたことです。これは、人類の歴史が始まって以来の大英断だとその当時の科学者たちは、ほめ讃えました。それほどフロンは脅威があるモノだと認められたのです。
その結果、日本では1988年に「オゾン層保護法」が制定されて、フロン類の生産と輸入の規制が決められました。
この時の「オゾン層保護法」で決められたのは、それから『6年後』の1994年からオゾン層を破壊する物質だと指定された特定フロンやハロンや四塩化炭素を製造禁止にするという規制だったのです。
私がオゾン層保護活動に入って行った時期は1992年でした。日本にオゾン層保護法が議決されて4年目。オゾン層保護法が実際に動き出す1994年の施行日まで、あと2年という時期でした。行政やフロンの製造業者やフロンを大量に使用してきた業界が大混乱の最中だったのです。
ドライクリーニングと言う言葉がありましたよね。これはまさしくフロンが使われていました。フロンという液体で衣服を洗濯するのですが、洗濯が終わって機械の扉を開けたら、そのフロン(液体)が瞬時に気化して消えてしまうのです。洗濯が終わったら、ほぼ同時に衣服が乾いている(ドライ)ということでドライクリーニングと言う言葉が生まれたのです。
昔の座布団って、中身は綿でしたよね。ところがフロンがあらわれてからは、スポンジになっていきました。このスポンジの小さな空気穴のようなモノが実はフロンが気化した後に残された穴なのです。
樹脂と一緒にフロンガスを型の中に入れて成形すると、フロンが揮発性発泡剤として働き、型から取り出した途端にフロンガスは大気に気化するという特性を使ったものです。発泡ウレタンも発泡スチロールも同じような製法でつくられました。
車に乗って、熱くなったらクーラーを入れますよね。これもフロンです。冷たいお水っておいしいですよね。そうだビールもです。これらを冷やす冷蔵庫もフロンの気化熱を利用してつくられました。その当時、どこの家の鏡の前にもあった化粧品のスプレー缶の中にもフロンが充満していました。
冷やすと言えば、車や冷蔵庫の体積と比べて、ビックリするぐらい大きな体積を持つビルがありますよね。このエアコンも全てフロンの気化熱を利用したものです。もう一つ、一番大量に使用されていたのが、精密部品などのよごれを洗浄する時につかわれた洗浄用のフロンでした。
これらのフロンは、今は代替品に代わって使われなくなったのですが、私がオゾン層保護活動に参入した時期は、まだ日本中で使われていたのです。その量を想像するだけで、私は時々、気が狂いそうになったものです。ホントだよ!
ところが、オゾン層保護法では、製造禁止(コック閉め)と輸入禁止が決まったのですが、使われているフロンの回収については何の取り決めもされない状態だったのです。それほど地球にとって危険なものなのに、だれがどれだけ大気に排出しても何の罪にもならない状態だったのです。
毎日毎日、日本中でフロンガスが大気に排出され続けていました。このフロンの中の一粒の塩素がオゾン層に登っていけば、10万個のオゾンを破壊していくことを私たちは知っていたのです。
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ということで、私たちの目的は、行政と業界と市民を巻き込んで、新しく生まれた回収システムを日本各地に広げて行こうというものでした。これは気が遠くなるような規模のでかいプロジュエクトだったのです。しかも少人数の。
そこで、私たちは二手に別れることになったのです。石井先生は群馬で生まれた行政と企業と市民で構成されたフロン回収システムの舵取りをやりながら、その当時まだ日本でどこも制定されていないフロン回収に関する条例をつくる動きをやって行き、それと同時に国や国会議員に対して進言をしていくことになっていきました。
そして、もう一方の私が西日本に広げて行く役割を担ったのです。
自宅を売って身上をつぶしてまでやるのですから、今度は失敗するわけにはいきません。家を売って、もう一度西日本に出向くまでの3ヶ月間の私の頭の中は、精密に働き出して行きました。
そこで、やっとのことで私が発明したゲーム感覚の面白い方法はこうでした。
・・・・・次回につづく・・・・
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