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バウの道中記 2006年4月21日 出雲 |
【風になる】
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本棚の奥の方から一冊の本を堀り出してきた。
この本は11年前の初版本の発売の時に関東のカヌーの友人からプレゼントされた本で、その後阪神大震災で寝室代わりにしていたワゴン車の枕元にいつも置いていたし、六甲の山の中の秘密の場所に建てたドームテントの中でも、いつも私を待ち望みながら留守番をやってくれていた。
「え??何でそんな重い本を山の上まで持って行くんですか?」と、たくさんの人に言われながらも、日本百名山を登り始めた時も、私と一緒に何度も3000m級の山々を一緒に登った愛蔵の本でもある。
『ラムサ真・聖なる預言』ラムサ(著)川瀬勝
(訳)角川春樹事務所
ただし、私は未だこの本を読み終わっていない。それどころか、いつも今度こそは一気に読でやろうと思うのだが、急激に生活環境が変わったり、読む時間がなくなったり、いつのまにか違う方向に向かい始めるとかで、この本を手にしてからすでに年月は10年を越えたにもかかわらず、10回以上の再トライを重ねたにもかかわらず、いつもその都度最初のページから読み直してばかりいて、まだ36ページまでしか読んでいないのだ。
暖かい日が続いて、波と風を感じたくなったので出雲の稲佐の浜で、ひとり砂浜に寝そべって一日をすごすことにした。
この浜は出雲の国の神在月の神迎えの神事が行われる浜で、なかなか夕日がきれいな白州の浜で、のんびり浜でもある。
何時間も波を見続けるのは久しぶりだ。いつの間にか寝てしまって、またうとうとしながら白い穏やかな波を見ていたら・・・また寝てしまって・・・ふと気がつくと『風の姿』が見えたような気がして・・・また波の動きの上の方を見ていたら・・・いつの
間にか、また寝てしまって・・・この一日は『風』を探して風に乗ることばかり考えていた。
「そうか!ラムサが言っていた風になるというのは、こんなところから始まるのかも知れない・・・」ふと気づいたのが、前から読もう読もうと思っていた、ラムサの本なのだ。
本棚から見つけ出したラムサの本の、いつも同じところで読み終わってしまうページまで読んでみた。改めて読んでみると実に今の私の心境なので驚いた。
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私にとって、風は究極の存在だった。それは、けっしてやむこともなく、自由に動きまわり、すべてを呑み込む。
境界もなければ形も持たない不思議な存在で、探究心が旺盛で冒険的だ。
これこそまさに、あらゆるものの中で生命の神なる本質の部分にもっとも似通っている。
そして、風はけっして人を判断したりしない。
だから私は風になることを望んだ。そのことに何年も何年も思いをめぐらせた。
風が私の理想となったのである・・・・・
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私が再び風となることができるまでには長い年月があった。
人間の時間の単位で言うと最初の出来事から二年がたっていた。今度は風に思いを馳せるのではなく、安らかな眠りについた時にそれが起きた。
その時私は、すべての源を讃え、太陽を、生命を、そしてサフラン色の砂を、月を、星を、ジャスミンの甘い香りを・・・そう、すべてを讃えていたところだった。まぶたも閉じないうちに、私は再び風として天空にいた。
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風になってみて、自分がいかに限界のある存在で、自然界に存在するさまざまな要素がどれだけ自由であるか、よくわかった。風になったとき、私は見えない力となった。それは形を持たないものであり、脈打つ光であり、分つことのできないものであった。
その状態で私は谷や渓谷を自由に通り抜け、山々の間をぬって飛び、海を飛び越えて空高く動き回ることができたのに、誰も私を見ることはできなかった。そして、風のように木の葉をエメラルドグリーンから銀色に変え、大木を動かし、赤子の肺に、あるいは恋人の口の中に入り込んだと思えば、また空に舞い戻って雲も押しやることもできた。
風となった私はけっして飼いならすことのできない、最高の「動の力」となったのだ。それは完全に自由であり、自然界にある「動」そのものであり、重さからも、大きさからも、時間からさえも解放されていたのである。
風となったとき、人間は自分自身について無知なままだといかに小さく無力であるか、そして知識の中に身を置くとどれほど偉大な存在となるかを、私は悟った。
そして、ただ望むことを通じて何かに長い時間思い馳せれば、人はそれそのものになると知った・・・・・・
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この本との出会いは面白い。ここまで来ての再会だから、また面白い。
やっとこの先を読み込む時が来たのである。私にとって今だからこそ、今に至ったからこそ、味わうことができる本なのかも知れない。 |
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