一月の間に満月が2回ある月の二回目の満月をブルームーンと呼んでいる。
また、この2回の満月の間の期間は、毎夜新月と同じ状況が続き、今年6月は祈りの世界では面白いひと月だった。
http://www12.plala.or.jp/m-light/notebook/BlueMoon.htm
今年2007年6月15日のファーストムーンから6月30日のブルームーンの間には夏至があり、豪快な号外があり、キャンドルナイトがありと、忙しい毎日だったが、私は極力自分を孤独な環境下に置いて、自分を自然界に同化させるような生活を心がけて来た。
そして、この北の大地にやって来た。
この文字を打っている私の廻りには、大きく太ったカモメたちが500羽ほど集まり、時おり私の上空を渦のように飛び回ってくれているし、またすぐ後ろの方には、先ほどまで一緒に遊んでいた馬たちが、のどかに開かれたマキバのあちこちで、おいしそうな緑の朝ご飯を食べている。
なんとのどかな風景だろう、やはり私が望む「生きる場所」はこの風景の中にすべてあるような気がしてならない。だからここまで引っ張られるようにやって来たのだろう。
しばらくして、子馬の一頭がもう一度私と遊びたいのだろうか、柵の近くで私に無邪気なサインを出して来た。
『よ〜し、もうちょっとあいつと遊ぶとするか・・・』
この旅で探りたいテーマは『慈しむこと』(いつくしむこと)である。
どうも最近の私は、自分自身を慈しむことを忘れていたようで、いつも自分の外側に慈しむこころを出すことばかりに追い廻されて来たようで、そのあたりの事に気づいたので、この旅は出来るだけ自分の体とこころがよろこんでくれる場所と環境を選んで、自分自身に向けて『慈しむ』工夫をしながら旅を重ねて来た。
昨夜、満月が雲の合間から出だしたころに『愛』という単語が私の頭の奥にあらわれて、それから朝までこの場所でいろんなことを考え続けてきた。
どうも『愛』という言葉を私たちは勘違いしているようだ。
つたない知識だが、この愛という言葉は仏教用語らしいのだ。
それも「渇愛」という、言わば苦悩の中の表現として使われて来て、その意味は、のどがかわいた人が激しく水を求めるような愛着。となり、一方的な欲から生れ出た煩悩のひとつと解釈されてきた。
それに比べて、『慈しむ』という言葉が私たちが本来が持ち込むべきこころの仕掛けなのかも知れないと、一晩かけてたどり着くことが出来たので、こころは壮快、壮快。また少しだけ進化したような気になっている。
『慈しむこころ』の中には、すでに満たされたものがあり、そのこころで相手を尊厳の中から見渡すことができる。
いやぁ〜!うれしい発見だ!
子馬は私を『慈しむこころ』で迎えてくれた。
ありがとう!
私もそのこころを伝えていこう・・・
ふと見上げると、「やはり」虹が輝いていた。
新しい人生の門出を祝福してくれているようだ。 |