20世紀最後の年となった2000年の1月17日を、私は特別な思いで迎えようとしていました。
この日は、1995年に起きた阪神大震災から5年目を迎える日でもあって、この日から12ヶ月後の20世紀最後の夜までの経験は、私にとって、まるで激流に身を落とされたかのように、ちっぽけな自分の意志や判断力や選択肢など微塵も入り込む余地がない、それこそ何かに操られているような一年となっていったのです。
この年の1月17日午前5時46分52秒は、いつもの年と違っていました。
5年前、私のテントをめざして日本各地から駆けつけた人が集い、神戸元気村の拠点となっていった石屋川公園の地べたにひとり座って、自問自答をはじめていたのです。
『もう、まるまる4年が過ぎた。この4年、出来ることはすべてやったのだから、もういいだろう。そろそろ神戸から出て行きたい。スタッフも育って来たし、ここからは誰にでもできることばかりだし、私はもうここには要らないだろう・・・』
そんなことを考えていたら、今年は20世紀最後の年だと言うことに気づいたのです。私は子どもの頃から20世紀から21世紀に移るカウントダウンの瞬間を、夢でたくさん見てきました。
そこには何かたいせつな事が秘められているような気がして、あまりにも数多くその瞬間の夢を見てきたので、私にとって、20世紀から21世紀に移る瞬間は、それこそ一大事な意味合いをもっていたのです。
私は、子どもの頃から見て来たそれらの夢を、ひとつひとつ、思い出そうとしました。この時の私の姿を公園のどこかから見ている人がいたら、ボロボロの服を着た変なおじさんが、公園のまんなかで早朝から座禅らしきものをしているように見えたでしょう。
が、私はそんなカッコのいいものでもなかったのです。疲れ果てていました。
しばらく頭脳を働かせていたのですが、いつの間にか眠ってしまったのです。
数分たって眠っていたことに気づいたのですが、この数ヶ月の疲労が体のあちこちに固まりのように集積していて、そのまま体を地面に倒してまた眠ってしまったのです。
深い睡眠になっていたのは一瞬だったのかも知れないですが、次に目が覚めた時に、ふ〜〜っと、体の中から音が聞えて来たのです。
それは私の声のような音で感じました。
『?・?・?・?』
『ゥん?ヒ・ロ・シ・マ?』『ヒ・ロ・シ・マ』って、あの広島のことか?
午前中、メディアのインタビューが数本重なっていて、忙しい時間を過ごしたのですが、昼過ぎから『ヒ・ロ・シ・マ』の確認作業をはじめていきました。
まずその当時、震災関連で強い結びつきがあった、広島の己斐のお寺の住職を
されている田中さんに電話をして、「急なことなのですが、広島に行くことになりそうなんです。できたら田中さんに頼みたいのですが、一番安そうな部屋を半年ぐらいの期間、何処かに探して欲しいのですが?」と頼みました。
彼からOKの返事が届いたのは、それから2週間後ぐらいだったでしょうか。
聞けば、私のことを知っているマンションのオーナーがいて、安く借りることが出来るらしいのです。
次の日、私は急いで広島に入って、そのマンションに案内されて驚きました。
爆心地のほぼ真下の建物だったのです。これだけ広い広島の街なのに、爆心地の案内プレートが立てられている島外科から、わずか30mしか離れていないマンションだったのです。
そのことがいったい何を意味するのか、その頃の私にはまだ何も知らされていなかったのですが、これで『ヒ・ロ・シ・マ』に少しだけ近づいたのかも知れないと感じていました。
後日この部屋の契約がされてから、神戸のスタッフたちにお願いして休暇をもらい、10日間、蛍光灯もない寝袋だけしかないこの部屋で生活をしてみることにしたのです。
その目的は『ヒ・ロ・シ・マ』の意味を知りたいということと、そこで私がどんな役割を持たされるのかということです。そこで私は、できるだけ広島の知り合いに会って、この謎解きのヒントを探すことにしたのです。
それだけではなく、平和公園をさまよったり、宮島に出向いてみたり、呉の方に出かけてみたり、島根との境目の山まで行ってみたりと、さんざん何かを探し求めたのですが、答えはまったく見つかりませんでした。
神戸に帰る日が来ましたが、その頃の私は、ひょっとして何も分からなかったことに意味があるかもしれないと考えるようになっていました。それと、そうとう大きな謎解きになるかも知れないという想像も生まれはじめていました。
ひょっとして、自分の生活観や判断力や行動力からは、うかがいしれない、もっとレベルの違うドデカイ何かが、謎解きをさせながら私を動かそうとしているのかも知れないと、ぼんやりと感じることが出来はじめていたのです。
ただ、今回の『ヒ・ロ・シ・マ』というメッセージを受けたことは、それまで何回か経験してきた個人的な内面のことではなく、社会の表面的な動きにつながるものになるのかも知れないという予感だけは持ち始めていました。
神戸の街はいつも通りに、私を出迎えてくれました。六甲道の駅を降りた時から、いろんな人から挨拶されながら石屋川沿いの事務所まで歩きました。
この石屋川周辺は『火垂るの墓』の舞台となった所で、私にとって、ときどきあのさびたドロップ缶を思い出すたびに胸がキュンとなる、神戸では貴重な場所なのです。私は公園に隣接した事務所に入る前に、この前座った場所でもう一度、地べたに座ってみることにしました。
座ってみたものの、まるで一人反省会のようなもので『何にも見つからなかった。部屋は長期契約になったのでまた行ってみることにしよう。それにしても情けない。謎解きは出来なかったのだから。』といろんなことを悶々と考えていたのですが・・・・・ふ〜と思い浮かんだことがあって、急いで事務所に帰りました。
その時、また聞えていたのです。またしても、私の声のような音で『最初の電話』という音が聞えてきたのです。
事務所に戻って最初の電話がかかってくるまで、私はそのことをだれにも言わずに、一人そわそわしていまいた。そしてかかってきたのです。
「もしもし、神戸元気村です」
「アぁ、バウさんでちょうどよかった。テトラです」
彼は東京に住む構成作家の谷崎テトラ氏で、何かの用件があって電話をかけてきたのですが、私はそんな彼の事情を考えずに、すかさず聞いてみたのです。「テトラ!何か私に聞かせておきたいこと、ないか?なんかあるやろ〜!」
テトラは話題が予期せぬ展開になったからか、「う〜ん・・・」と声をたてて考えたあと、思いついたように話し始めたのです。
「バウさん、原爆の火って知ってましたか?先週、松本で見てきたんです」
その後も、彼は電話の中で、その原爆の火のことを説明してくれたのですが、私の頭のなかは、すでに大混乱を起こしていました。
この時はじめて聞いた、原爆の火という単語の響きが頭の中を走り回り・・・『ひょっとすると、これが私が探していたものかも知れない。いやそうに違いない。しかしどうして、ここにきて原爆の火と私がひっつくのだろう?いや、これには何か訳があるのかも知れない。いったいこれから何がはじまるのだろう。やっぱ、最初の電話だった・・・・・』
数日後、テトラは松本にある神宮寺に私を案内してくれました。
そして、3月の始め頃だったでしょうか、神宮寺から正式に「原爆の火」を分灯していただき、その火に『こころ』と名付けて、12月の大晦日までの期間全国92カ所に分灯をして行くことになったのです。
そして20世紀最後の夜、各地の催しでその原爆の火が送り火として使われ、同時に21世紀を迎える迎え火として扱われたカウントダウンが開催されていったのです。
その当時、多くの人がこの原爆の火を分灯していった行為の表面上の動きに興味を持っていたのですが、実はそこの部分は、二人三脚でやっていた私とその火としては、あまり興味がありませんでした。そこには両者で誓い合った明解な目的意識があったのです。
神宮寺で分灯式を終えてから2日目のことです。私と『こころ』は松本から塩尻峠を越えて諏訪湖に向けて歩いていました。車の場合、いつも塩尻峠はなんなく通り抜けていたのですが、この時は提灯に火を灯しながらの歩きです。
すでに持っていたロウソクは残り一本になっていて、峠の手前のみどり湖のあたりの民家に事情を話して、新しいロウソクを手に入れていました。
塩尻峠は中山道の大きな道をトラックに囲まれながら何とか越えて、諏訪大社で休憩をとることにしました。ちょうどロウソクが短くなってきたので、神社の奥の方の風のない茂みの中で新しいロウソクに入れ替える作業に入ろうとしたのです。
その時、提灯の中に目を向けた瞬間のことでした。提灯の中の『こころ』が私に語りかけてきたのです。
『帰りたい・・・』「んぅん?・・・帰りたい?」
私はしばらく考えたのですが、すぐに泣き出してしまいました。何故かと言えば、せっかく分灯式までやってもらってここまで歩いて来たのに、2日でまた松本に帰りたいと言い出すのか?と思ってしまったからです。
が、すぐにこれは勘違いかも知れない。ひょっとすると『ヒ・ロ・シ・マ』に帰りたいと言う意味かも知れないと思えてきたのです。
そこで、私はすぐに広島の友人と神戸のスタッフに電話を入れて、広島にこの
原爆の火が保存されているかどうかを調べてもらうことにしたのです。返事は諏訪湖を過ぎて、八ヶ岳山麓に差し掛かった頃に戻って来ました。
やはり、広島にこの火はなかったのです。
そして『ヒ・ロ・シ・マ』に『帰りたい』とふたつの言葉が繋がったのです。
この日は、いのちの祭りを復活させたり、『チベットの死者の書』を翻訳した、作家のおおえまさのりさんに案内されて、クリスチャンのシスターたちが中心になった小さな農業コミュニティーにはじめての分灯があったのですが、私の頭の中は、広島に返すにはどうしたらいいのか、でいっぱいでした。
おおえさんの自宅に寄って、そこで2回目の分灯をして八ヶ岳から甲府方面へつづく長い下り坂を歩いていた時、ふと思いついたのです。20世紀最後の満月の夜、原爆の残り火をつかって広島で灯籠流しをやってもらおう!と。
それからの私は、淡々悠々と全国を歩き始めました。そして、たとえ一日でもこの火を広島に帰したいという思いから、計画を進めていったのです。
広島ピースウォーク:
http://www.otsukimi.net/walk/report/1013.html
そして、21世紀になってからの灯籠流しは、それまでの火をつかわずに、毎年、星野村に保存されてきた『原爆の火』を種火として使われるようになったのです。言い方を変えれば、毎年8月6日の一日だけ、里帰りを果たして来たと言えるのです。
ここで言う、それまでの火というのは、広島平和公園にある『平和の火』なのですが、実はこの火は広島を復興させるためにと言う願いから、溶鉱炉から取り出した復興祈願の火なのです。
終戦から60年が過ぎ、もはや復興のための火は、そろそろその役割を果たし終えたと言えるのではないでしょうか。そして新たに、その場所に多くの人の意思が集り、『原爆の火』の里帰りを求める日が来ることを、切に待ち望んでいます。
なぜなら、その『原爆の火』が『ヒ・ロ・シ・マ』に『帰りたい』という意思を、いまだに持ち続けているからです。
私は今まで、この火のことを数百人の人に話しをしてきたのですが、そうたやすく、この火を親身になって守ろうとする人は現れませんでした。
願わくば、広島の人たちが、一人、また一人と『帰らせたい』と思い続けないかぎり、この火の広島への里帰りは叶わないことなのかも知れません。
お願いです。せめてときどき、思い出して欲しいのです。
『ヒ・ロ・シ・マ』に『帰りたい』という『原爆の火』の意思を。
【参考ウェブサイト】
広島浄心院の田中さんたちの催しの一部:
http://www.tibethouse.jp/event/2002/020914hiroshima.html
谷崎テトラ:
http://blog.livedoor.jp/tetra_/
松本神宮寺:
http://www.jinguuji.or.jp/index2.htm
広島灯籠流し:今年もしんじょんたちが、カヌーで灯籠流しを応援します。
http://www.urban.ne.jp/home/tourou/index.html
田口ランディ:(2000年11月27日のメルマから)
http://www.melma.com/backnumber_1926_1366213/
ワンピースキャンドルナイト:
http://www.1pi-ce.jp/
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