京都市内で外人向けのゲストハウスをやっている友人から久しぶりに連絡
がありました。面白いですね、彼と私はこの30年間まったく連絡をしあ
っていなかったのですが、今年に入ってからふたり同じ頃に同じ思い出の
曲を聞き始めたようで、その曲を聞いた二人が30年もたっているのにお
互いのことを思い出して、そろそろまたやりたいなぁ〜と思っていたらし
いのです。
えっ?何をやり出すかって〜? そう音作りです!
彼と出会ったのは、私の二つ目のバンドをやった時でした。一つ目のバン
ドはちょっと音的に幼稚な部分があって、半年ぐらいで辞めたのですが、
そんな時に神戸のライブハウスで知り合ったのが彼で、私たちの音楽観は
すごく似ていて、すぐに他のメンバーも集めて音合わせをやることになっ
たのです。
その音合わせで最初にやったのが、はっぴいえんどの『12月の雨の日』
でした。私はドラムとサブボーカルでした。ですから1970年に出され
たこの曲を聞けば今でもその時のことを興奮して思い出してしまうのです。
始めての音合わせの日は、私の記念すべき日でした。始める前からその日
スタジオに集った顔ぶれを見ただけで、やっと仲間ができたと思えていた
からです。この時のトキメキは最高でした。
貸しスタジオに集って、それぞれの楽器のチューニングをやり、はじめて
の打ち合わせは、実に簡単なモノでした。
「じゃあ、12月の雨の日から行くね!最初はまったくのコピーから行く
からね!最初はまったくのコピーだよ! OK、ほんじゃ行こうか・・・」
たったこれだけの打ち合わせだけで、お互いがどれだけ演奏出来るのかも
分からないまま、私の『2、3、4・・・』で始まったのです。
一度目からボーカルを入れたのですが、もちろん最高の出来でした(笑)。
『12月の雨の日』はっぴいえんど 今は亡きオヤジにプレゼントです。
以前、私の子どもの頃のことを書いた原稿を見つけて来ました。これは私
が始めてドラムセットに出会った時を書き留めたものです。私が小4の時
のことですから、約50年前のことになります。
そんな時代に私の父は、私をヤマハ音楽教室に入れようとしていたのです
から、今となってはその愛情の深さに頭が下る思いでいっぱいです。
だからこのいっぱいの気持ちをもって、オヤジに乾杯〜!!!
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【ドラムセット】
小学校の4年生の頃だったでしょうか、グループサウンズと言うものが
ヒット曲を飛ばす時期を迎えました。ビートルズの音がまだ日本に届い
ていない頃でした。その頃から私の両手と両足は時々テレビに映し出さ
れるドラムをたたく人と同じリズムで自分の前にはないはずのドラムを
たたきはじめてるようになりました。
父の仕事場にも東芝のラジオがあって、自分の好きな曲が出て来た時の
私は仕事中の父のこともお構いなしに、体全体を動かして指と足でドラ
ムをたたくのです。
そんな私を見た父が小さな声で言ったのです。
「それはドラム言うやつか?」
「ん、そうや!」
少しの間、父は私のリズム感を見てくれていました。
それから一週間後、一枚のチラシを父は私に渡してくれました。ヤマハ
の音楽学校のチラシだったのです。その頃の大阪ではヤマハの学校は、
ええとこのおぼっちゃんとお孃ちゃんしか行けないところだと言われて
いる頃でした。私の家は、そんなええとこでもありませんし、私もおぼ
っちゃまでもありませんでした。
「おまえここでドラムなろたらええんちゃうか・・・」
「・・・・・・・・・」
この会話以降の私は、無口な父の決断力や行動力について考えるように
なりました。何かやり出そうとする時は、父のようにあまり言葉と言う
道具を周りに使わないで、たとえ単独であったとしても淡々とその核心
の部分やチャンスを自分の力で手に入れるというやり方が分かり始めた
ような気がしてきたのです。
同時に大人と言うものはこんな風に自分のやりたいことを決めて行くこ
とができる人たちなんだと自分のこころの中に憧れのようなものをいだ
き始めたのです。
ところがこの音楽学校の噂は兄弟たちにすぐに知れ渡り、もちろん私に
とってこの噂は良い噂話しにはなりませんでした。どうしていつもお前
だけが可愛がられるのかという喧嘩話しにまで発展してしまったのです。
それから一週間ほどでこの噂はいったん断ち切れたのですが、また新た
な大騒ぎが始まりました。我が家に豪華なドラムセットが届いたのです。
我が家と書いたのですが、その頃の私たち家族が住んでいたのは長屋の
端っこで家族9人が寝起きするのがやっとと言える狭い家だったのです。
Pearl Drumsと印刷された大きな段ボールが全部で10個ぐらい届いたの
ですからさあ大変です。ちょうど父が留守の時だったのですが、こんなた
くさんの荷物が家に届いたのは家族全員始めての経験で、この時私たち全
員がまだ誰もこれがドラムセットだと知らない状態でガムテープをはがし
ていったのです。
段ボールの中身がドラムセットだと分かった頃に父が帰ってきました。父
はあきれた顔をしていた母や兄弟たちに何も言わずに仕事場に入って行っ
て、いつもの姿で仕事をやりだしたのです。その父の姿を見て母は怒り出
しました。この時を境にしてしばらくは夫婦喧嘩をつづけていました。
ドラムセットはこの夜の内に、兄弟7人がぎゅうぎゅう詰めで寝ていた二
階の端っこに移動させられました。
次の日、兄の学校の音楽教室に預かってもらえるという話しがまとまった
ようで、私がドラムをたたけると楽しみにしながら学校から帰って来た時
には、もう二階にはドラムセットがありませんでした。
それから一週間ぐらいたった頃、病院で検査を受けていた父の病名が胃ガ
ンと宣告されたと、母が家族全員に知らせてくれました。この検査を受け
た翌日に、父は1人で心斎橋の楽器屋さんにドラムセットを買いに行った
と、数年後に母から聞かされましたが、その時にはすでに父は亡くなって
いたので、父にはこのドラムセットのお礼を言えないままとなりました。
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