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バウの道中記 2006年1月10日 箱根神山 |
【とある社内報1】
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今回から2回に分けて、昨年11月、とある大手企業の社内報で流されたものを、掲載することにします。
企業側のトップの方のお名前は、あえて●●さんとさせて頂きました。
では、時間のゆるす限り・・・のんびりと・・・・・
●● バウさんの本を読ませていただきましたが、まず「もくじ」を見て非常に深い共感を覚えました。言葉の一つひとつが、どこかで会ったことがあるような、心に深く響くとても分かりやすいものだったと思います。
阪神大震災のことはもうすっかり過去のこととして忘れてしまいがちですが、バウさんの本を読み、改めてそれではいけないと思わされました。この内容は、ぜひ英訳してアメリカでも出版してほしい気がしますが、そういったお話は出ていないのでしょうか。
バウ ありがとうございます。そのような話はありませんが、文庫本として出版したいという話があったり、新しい本の執筆依頼などは来てます。
また本を読んだというサンフランシスコのある日系人の大学の先生から手紙が来まして、この本の内容に対して深層心理学の博士号を送りたいというんですよ(笑)。
私自身、学術面のことは全然分からないんですけれど、どうやら大学が推薦してくれたらしく、これまたありがたい話だと思っています。
●● 博士号を贈りたくなる気持ちは、私にも分かりますよ(笑)。目次ひとつをとってみても、詩のごとく本質を短い言葉で表現していて、あたかも禅であるかのようです。
アメリカの超絶主義のエマソンは、物事の本質に命名するものが詩だと言っていまして、その意味で哲学者よりも詩人の方が直感的に優れているとしていますが、それはまさに禅の世界そのものですね。本質
を短い言葉ですぽーんと言い切るのがものすごく大事なことかもしれませんね。
バウ 「十牛図」というのは、ご存知ですか。
●● はい、それについてもバウさんの本で啓発されました。で、今日はそれについてもお話いただきたいと思っていました。
バウ 実は先ほど申し上げた新しい本の執筆依頼というのは、「十牛図」をテーマとしたものなんです。
●● それは楽しみですね。ところでこの本は、阪神大震災で死が目前に迫った女の子との対話から始まり、後半になってくると、すごく密度の濃い集約的な言葉がいっぱい出てきますね。特に「仕事をしないことが自分の仕事」なんていうのは、ある意味で私がモットーとしていることそのものです(笑)。
バウ それがお分かりとは、素晴らしい(笑)。
●● 私はよく「非常勤社長です」なんて挨拶をするんですが(笑)、トップが仕事をしないことが組織を動かすポイントかもしれませんね。実際、バウさんはそのごとくやって阪神大震災でものすごいボランティアたちを動かした。また、「行政が動かぬときは、マスコミを」と
いうのも良く分かります。
このことはアーヴィン・ラズローも言ってまして、要するに、みんなが知るということが何よりも大事なことで、そうしたら行政もおかしなことができなくなる。とにかくバウさんの本は、どこを見ても本質を突いた内容になっていますが、まずは「生きていこうとする人を助けたい」と思われた辺りのことからお
話いただけませんか。
バウ そう思ったのは、女の子との出会いがきっかけでした。阪神大震災が起こった日、ぼくはオゾン層保護活動の合宿を水上温泉でやっていたのですが、地震が起きたことを知り、そのまま埼玉の自宅に立ち寄り、ワゴン車に生活用具を積み込んで阪神に向かいました。
オゾン層保護の活動で一つの役割を果たし終えたと思っていたちょうどその時に大地震が起き、直感的に「これは私の次の大仕事じゃないだろうか」と思ったからです。
しかし人助けをしようと神戸に入ってはみたものの、道路に瓦礫が散乱していて、とても車が通れる状態ではありません。
そこで車を降りて一息入れていたとき、少し先の路地から小さなうめき声が聞こえてきました。潰れた家の下に、女の子と瀕死状態のお母さんが埋まっていたのです。
私はその少女に声をかけて励ましつつ、必死で助け出そうとしたのですが、少女たちはやがて火に包まれていきました。目の前で女の子が焼け死んでいくのを、私は助けることができなかったんです。そのあとはただ茫然として、空を仰いでただ泣くばかりでした。
●● そこからすべてが始まっていったわけですね。
バウ そうです。私は半狂乱になって瓦礫を押しのけながら「元気出せーっ」と大声で叫び続けたのですが、結局その少女は炎に飲み込まれて亡くなりました。
その日は満月で、夜空には美しい満月が輝いていました。
そして私が身悶えしながら空に向かって「世の中に神さんはほんまにいてるんかぁ!いるんやったら出てこい!人間に力を貸せぇっ!」と大声を出したそのときに、背筋にピーンとエネルギーが入ってくるのを感じました。
で、そのとき、私は本気で決意したんです。これからは死んだ人と関わるんじゃなく、生きている人を助けていこう。生きていこうとしている人を助けて行こうと。
●● その少女との悲しい出会いがあったからこそ、その後の活動が本気でやれたとも言えますね。
バウ 私は戦後生まれですから、自分の目の前でこんなにたくさんの死者というものを見たのは初めての経験でした。それもただ見ただけではなく、何百という遺体に実際に触って運び出さなければならないんです。
そのとき、やっぱり生きていくことのほうが大切だと思いました。葬る作業は習慣などもありますから、誰にでもできるかもしれないけれど、周りには生きていくモチベーションをふくらます力が萎縮している人ばかりですから、なんとかその部分に私の力を注いであげたい。
要するに、生きるため、生きる方向に向いている人だけを助けようと、ぴょーんと一遍にジャンプしてしまったわけですね。
●● 再生とか蘇生をもって生命の定義とすると、誰か生物学者が言っていましたが、バウさんはまさに破壊の悲劇からの蘇生に手を貸してあげたいと思われた。そしてその神戸での人助けと、先ほどの「十牛図」が、結果的につながっていたわけですね。
バウ 人助けをするというのは、禅の修行者たちが長い修行を経てやっと到達できる境地に近いものを、象徴的に体験することができるものなんです。
というのも「十牛図」とは禅の悟りに至る十段階のプロセスを牛と人からなる十の絵で表現したもので、人助けはいわば「十牛図」の最後の第十図に当たるからです。
●● そのプロセスを簡単に説明していただけませんか。
バウ 第1図は「尋牛」と呼ばれていまして、これは牧童が牛がいないのに気づいて、その牛を探しにいこうとしている絵です。
ここで言う牛とは自分自身のことで、いわば自分探しの旅が始まっていくわけですね。
いまの社会はどうでもいいことで急がしすぎ、自分を探してみようかなと思う人がなかなかいません。だから輪廻で何回生まれ変わったとしても、本当の自分を探し出せる人があまりにも少ない。
しかし人生は、自分とは何か、人生の目的は何かと、その意味を探し出していく旅のようなものじゃないでしょうか。そしてその旅が、牛、つまり自分自身がいなくなったことに気づいて真剣に尋ね求めていくことから始まっていくわけです。
●● なるほど、自分のことが分からずに、自分の人生を生きることができませんからね。他人や他国のマネばかりしていては、本当の自分の人生を生きることができない。私も全くそう思います。
バウ 人助けにやってくる人たちも、心のどこかで自分探しをやっているような気がします。
それはさておき第2図は「見跡」で、これは牛探しの旅に出た牧童が道に残された牛の足跡を見つけ、それを必死で追って行く絵です。
つまり、文献や経典などを読みあさってはみるものの、それは足跡であって牛ではない。自分とは何かがまだ分からず迷っている状態ですね。
そして第3図が「見牛」で、これは牧童が牛の尻尾あたりをやっと見つけて喜んではみたものの、尻尾だけではほんのちょっと真の自己を垣間みたにすぎません。
普通の場合は、ここら辺りで旅が終わってしまい、そして「こんなものなのかな?」と思い始めるところで、また世間の波の中に入っていってしまうケースが多いんじゃないでしょうか。
しかし旅ではさらに「得牛」、つまりやっと牛を見つけたものの、牛は言うことをきかずに手綱を引っ張リ合ったりして格闘が始まり、ようやく牛をコントロールして「牧牛」の段階に至ります。
たいていの場合は、人生の成功はそのあたりだと思ってらっしゃる方が多いようですね。
そして6番目の絵が「騎牛帰家」で、いったん牛を家に連れ帰るのですが、「忘牛存人」の言葉どおり、いつしか牛のことを忘れてしまう瞬間が出てしまうんです。
ところがその後、急にポカーンと何もない絵柄が第8番目に出てきます。丸い円のなかには何も書いてなく、周りに黒の円が描いてあるだけです。これが、『空』だと言われている世界なんですね。しかし絵はここで終わらずにまだ続きます。
第9図ではこの地球という星の四季、季節感、水とか、川とか、花とか、蝶とか、鳥とかといった花鳥風月が描かれていますが、これはつまり、人間界に答はない、自然摂理の中に真理がある、静けさのなかにすべてがあるといった境地を表しているのだと思います。
そして最後10番目の絵はどうなるかというと、いわゆる巷の方に、再び普通の姿になって、荷物をかついで戻っていきます。
再び俗塵にまみれた街に入って手を垂れるんですが、これはすなわち、人々に手を差し伸べて人助けをすることを意味しています。
人助けは困った人々のところに飛び込んで、何か役立つことをやろうというものですが、要するに「十牛図」からすれば、いきなり究極の世界にジャンプするようなものなんですね(笑)。
●● わずか十枚の絵で人生の究極の旅を表してしまったわけですね。それにしても、最後の絵はやっぱり素晴らしい。悟りの聖なる領域にたどり着きながら、再び俗世界に戻ってきて、人混みの中で人と交わりながら生きていくわけですから…。そこには非常に人間らしい優しさというか、なんか人間臭さが感じられていいですね(笑)。
バウ これは「入廛垂手」と言いまして、廛とは市場のこと、その市場の人混みに手をブラリと下げて(垂手)いかにも気ままに入って行く姿を表したものです。
この境地に達した人は、高く深く静かな境涯にあるという素振りさえ見せず、ただ自分の足の向くまま気の向くままに行動し、酒の入った瓢箪を腰にぶら下げて市場に往き、酒をくみ交わしながら話をする。
そんな姿をこの十番目の絵が物語っているのですが、このような人になると、人が苦しんでいるのを見れば、苦しんでいる人のところに駆けつけ、その苦しみをいっしょに背負い、救おうとする働きが自然に出てきます。
これは意図的にそうするのではなく、そうしないではいられない慈悲心の現れとして出てくるのであって、最後は結局は、人の中にまた入っていくということなんですね。
このように「十牛図」は自分探しの旅のプロセスを表し、その究極の姿としてこの絵があるわけですが、人助けが「入廛垂手」と言うのはおこがましすぎるとはいうものの(笑)、必死で人助けをやった方は、結果として真の自己の姿をチラリと垣間みることができ、それが自分を成長させる近道であることに気づきます。
その意味で、自分のことや人生の意味を考えるには、人助けに飛び込むのがいちばんかもしれませんね。
●● いまのお話のなかに、いろんなものが包含されている感じがしました。特に自然や四季感がそこに出てきたのは合点がいきまして、日本の文化には四季感は絶対に欠かせないものですね。
バウ とかく人間界だけでやっていることが多いですが、自然摂理を離れては何もできません。
●● 私は商業界で「生業・家業・事業」のそれぞれの意味を教わりましたが、最近はそれ以上にもっと素晴らしい世界があることを知りました。
バウ 私は人とお話するときに、この方はどのあたりまで行ってらっしゃる方なのかなと「十牛図」のステップを想定してお話しているところがあるんですが、●●社長の場合はもうすでに何度も10番目までいってらっしゃいます。
で、10番目まで行ったら、実はとたんにまた螺旋の旅が始まって1番から始まるんですね。人生というのはその繰り返しなんだと思います。
●● 事業も螺旋的な発展があるらしく、東洋的にみますと「事業」というのは欲と能力とで成し得ていく仕事として下に位置づけられていまして、その上に「徳業」があり、これは同じ事業でもやっているその人の尊さがじわっと滲み出ているものです。
またその上に、善悪是非を問いただすというか、死んでもこれだけは絶対譲れない守るべき自らの掟といいますか、そういった理念を持ったものが「道業」だというんですね。
さらにその上に、驚いたことに「天業」があって、天職というのか、聖の業というのがある。それはいったい何なのかというと、「人間と自然を生かしきっていくなりわい」なんです。
つまり東洋的には環境まで含めた仕事の思想といったものが最初からあったんですね。 日本には「博学にして要を知らず」という言葉がありますが、いまの「十牛図」は、要からずばり入っているような気がします。その中に博学というのか、手段というのか、そういうものがあって、感性で得られるものが何よりも大切なんですね。そしてそれを生かすための手段
として左脳的なロジック、理論なんかがあると捉えるべきですね。
バウ 私は自分の人生の真ん中に「社会貢献」を置いてやってきたんですが、これは私なりに言いますと、人を助ける生き方をしていきたいと思っているということです。
と言いますのも、根源的なところを言いますと、「人生は短い」と完全に分かっているからです。46億年の地球の歴史から見れば人生なんてほんの一瞬ですから、そのことが分かれば、人生をいいことずくめで生きられると思っています。
というわけで、私の人生の中に惑う時間はありませんし、憎むという時間も作っていません。また怒るという言葉もあんまり使っていませんし、そういう体験もあんまりしないようにしています。
人生は短かすぎ、その人生をいいことずくめで生きていきたいという思いがありますから、そんなことに時間を費やすのはとにかくもったいない。
要するに、人生どういうふうに生きていけばいいかに焦点を絞り込めば、わりと楽しく、役割の通りに生きていけるのではないかと思いますね。
●● そのことは私も瞬間的にチラッとかすめることがあります(笑)。小言を言っているような社長では嫌で、いつも「すごいね!」とか「うおーっ!」とか、いろんなことに感動できる人生でありたいのですが、そう思ってもなかなか(笑)。しかし、人間にとって大切なそのことが、実際にはいちばん難しいことかもしれませんね。
バウ 人間には五感がありますが、五感っていったい何かと今度●●さんにもみなさんに質問していただきたいんです。
五感って何か、それは視覚、聴覚、味覚、嗅覚、そして触覚です。ここで問題なのは、触覚がだいたい最後のほうでやっと出てくることで、それも最近はバーチャルな世界で与えられたものばかりを見ていて、その中でしか生きられない人が増えてきたから、結局触覚というものがマヒしてしまったのだろうと思います。
人を愛するというのは実は触覚なんです。遠くの人のことを思い浮かべながら、その心に触れてみる。要するに、時空間関係なく触ることができるんです。
過去のことにも触れたり、未来のことにも触れたり、要は触覚なんですね。
五感の中で現代人がいちばん使えなくなっていくものは触覚だと私は思っています。しかし、心に触れる、美しさに触れるというのが人間には非常に大事なことなのに、その触覚のアンテナがダメになり始めていますから、それを取り戻し触覚のアンテナを高く上げるには、自分で体を動かし、自分で体感していくしかありません。
●● 風や水の触覚とか、汗を流して何かをやったときの手応えの触覚など、確かに実際に触れて感じることから初めて理解できるものがありますね。
バウ バーチャルな世界にいる人は、見るとか聞くといった感覚しか使っていません。ところが原始の時代の人々や古代人、そしてアイヌの人々等も、触覚が本当に優れていた。その触覚をもう一度蘇らせない限り、本当の人間らしさも、生命力も生まれてこないと思います。
●● 釈迦もまた、行動の中に悟りがあるとしています。悟りには直感や行動などその入口はいろいろありそうですが、悟りというものは奥行きが深いものですね。心の触覚というものがあるかどうかは分かりませんが、なんかそういったものが悟りに誘ってくれるのかもしれませんね。
バウ お坊さんたちは悟るためにさまざまな苦行をやりますが、ぼくとしては行うことからしか悟りには至れないと思っています。それこそが『行』です。
十牛図でもそうですが、人の中に入って行って初めて本当の悟りが得られ、一般的な滝行などだけでは何も得られません。人と触れ合うことによって、初めて10番目の世界に入ることができるんです。
●● 人と触れ合う、なるほど、これもまた触覚ですね。
バウ 天上天下唯我独尊という釈迦の言葉がありますが、これを私流の論法で申し上げますと、今までこの星に生まれた累計人口は800億人くらいだろうと言われています。
しかしその中に●●さんと同じ人は誰一人としていない。
これが天上天下唯我独尊なんです。
それだけ貴重なたった一人の存在でありながら、鉄砲で撃ったり裁判で殺したりと残酷なことがいろいろある。
しかし人間は誰もが天上天下唯我独尊の非常に貴重な存在なのであって、その基本的なところをきちんと認めることが最も大切なことだと思います。
人間それぞれが貴重な存在であるということを自分の人生観の真ん中にぼーんと置いてあれば、そこから生き方、考え方が違ってきますし、また向上心という点でも、40歳代までは上に向かっていくものと理解して上ばっかり向いて進んできましたが、50代に差し掛かるや、向上心というのは実は水平方向にあるということが分かってきました。
だから向上心を水平方向に面として広げていけばいくほど、向上心に適った立体が自分の周りに生まれてくる。
そのことがはっきりと分かってきたんです。
それも含めて人間というのは、やはり十牛図の最初の絵ではありませんが、自分とは何ぞやというところから出発して、実際に確かめてみることがものすごく大切なことだと思います。
自分という文字は「おのれが分かる」と書くように、おのれが分かっていないと自分とは言えないんです。 |
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