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バウの道中記 2006年1月9日 品川 |
【四方山ばなし】
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私が関東に入って来たと言ううわさが流れているらしく、いろんな人から携帯に頻繁に連絡が入るようになってきた。
しかし、ほとんどの人は私が動いている今回のテーマについて理解していないようである。「バウさん、時間あったら何か美味しいもんでも食べに行こう!」「昨日ライブやったんですけど、来てもらいたかった!」などなど・・・
面白いのは「ヒマだったら遊びに来て欲しい」というもので、突っ込んでみると本人はヒマではないらしいのだ。もちろん私もヒマではない。
「・・・と言うことで、『ついでに』バウさんに会いたいと思っているので・・・」と言うのも面白かった。
こう言う会話が飛び交っているのが、ごく一般的な普通のつきあい方なのだろう。私にはこんな会話は無縁のものに思えてならない。やはり真剣にどっぷりと会話を楽しみたいと考えているからで、このようなあいさつ言葉から始まるお誘いを、こちらの方から丁寧に7件も断った。
今日は札幌にいた時から東京に出たら会ってみたいと思ってアポイントを取っていた谷川さんと会う日である。
彼を説明するには手間がかかる。彼のパートナーの陽子ちゃんから説明して行くことにする。
彼女は広告代理店からフリーライターとして独立した後、一般公募で『CNNデイウオッチ』のキャスターになった異色のキャラで、数多くのテレビ番組のリポーターもやっていたが、その中の一つであるNHKの『未来派宣言』という番組で今から8年前、私を取材して取り上げてくれたことがある。
その後、彼女は私が出すことになった本の編集にも関わってくれて、その当時、神戸の混沌とした鬱蒼とした密林地帯のような野生的な所にいた私にとって、かなり重要な理知的なナビゲーターの役割を担ってくれた存在である。
今から7年前だろうか、そんな彼女がパートナーの谷川さんと一緒に神戸の事務所にやって来て、谷川さんがいきなり沖縄に行って欲しいと言い出したのである。私はこの時始めて谷川さんと出会ったのだが、私には彼の感性を面白く感じ取る何かがあった。
その当時の彼は、船井総研という会社の秘書室の中で中心的な立場を持っていて、数ヶ月後に開催される『オープンワールド』というフォーラムの目玉として沖縄のSさんという人物を何とか表に出して出演させたいと、何度も沖縄に出向いたらしいのだが、このSさんから断られていたらしいのである。
私は船井総研と書かれた名刺に戸惑った。と言うのもこの船井総研と言う名前にいい印象を持っていなかったからだ。
なにやら自分自身の方向性を見つけることが不得手な人たちをかき集めて、それも飾り立てた取り巻きたちに周囲を守らせながら、いつも効率的な集客力だけを目的にして、それをビジネスにしているグループとしか捉えていなかったからである。
しかし、谷川さんは違うようである。彼は沖縄のSさんにぞっこん惚れ込んでいるようだ。彼は「バウさんが沖縄に会いに行ってくれたら、Sさんは必ず打ち解けてくれて、フォーラムに出演してくれることなる」と初対面の私に言い切るのである。
私は彼の熱い思いにほだされて、沖縄に行くことを承諾した。沖縄のSさんと言う人物に興味を持ったからでもある。
沖縄のSさんは本島最北端のヤンバルから100キロも車を運転して私を那覇空港で迎えてくれた。それも運転手側のドアが開かないオンボロ車で迎えに来てくれたのだ。
その時、彼とはじめて会った印象は、そのものズバリ
『これほど素朴で正直で純粋なヒトは、いないであろう』
と出会った一瞬で思えたことだ。
私たち二人はこの空港ロービーで出会った直後から、2泊3日の限られた時間の中で、食事の時間も忘れ、寝る時間もおしみながら、まるで旧知の親友同士が久々に出会えた
かのように、どっぷりと私たち人類の『過去 今 未来』について話し始めていったのである。
古代琉球から伝わる、みかん山の祈り台。砂浜で泣きながら話してくれたこの惑星の未来。月読の命が谷に祭られてその地名となった読谷村の話し、マチュピチュの話し、ホピの長老たちとの祈りの話し、北極点の祈りの話し、などなど・・・・・。
Sさんのそれまでは、あまり周辺にこのような話しを聞かせる人物がいなかったのだろう、私は聞き役に徹していった。
その甲斐があったのだろうか、それとも彼はもともとこの時、表に出るタイミングでもあったのだろうか、彼はその後本土の方で始めて講演という手段で多くの人の前に立つことになった。
『オープンワールド』で驚いたのは、このフォーラムに私も出ることになってしまったことだ。その当時有楽町の駅前に出来たばかりの東京フォーラという大きな建物のメイン会場で、それも最終日のオオトリの講演である。
その講演の直前、楽屋で始めて船井幸雄氏に会って挨拶を交わしたが、やはりそれまでの私の想像が当たっていたようだ。この人物とは今後これ以上交わる必要がないと直感
できたのである。
谷川さんは、その半年後に船井総研を辞めて、自分で田園調布に出版社をつくり今日に至っている。彼に感謝しているのは、彼自身が何度も渡米してその時の講演者として日
本に始めて紹介した、カナダ先住民アベナキ族のトム・ダストゥと私を仲良しにしてくれたことだ。
トムとはその後、数多くのピースウォークを一緒にできた。
20世紀の最後の満月の夜に、アラスカの先住民のボブも迎えて『広島原爆の残り火』を里帰りさせて、灯籠流しが出来たのも、その発端の繋がりは谷川さんの動きから生まれたと言えるからである。
品川の駅に着いて、駅前の看板で約束した京急ホテルを探していたら、谷川さんから携帯に電話が入った。
「バウさん!なつかしい!今何処ですか?」彼は相変わらず、気取らない大阪弁だ。
彼は交差点の向こう側で、手を大きく振りながら待っていてくれた。懐かしい7年ぶりだ。この再会は実に懐かしい。
私たちは、まるで昨日も何処かで会っていたような感じで話し始めていた。しかし話題が多すぎて何処からでも入って行ける重複した人間関係の面白さもあって、お互い早口である。
取りあえず近くのロイヤルホストに入って話すことにした。
私は最近の彼の周辺にいる人物について話しを聞くことにした。
彼の感性は相変わらず、鋭さを持っていて、高くあげた感性のアンテナもなかなか感度がいいようだ。私も知っている人物について、彼なりの本音の的確な人物評価を聞かせてくれた。この人物評価は私を満足させる内容ばかりであったのが嬉しかった。
また彼は最近、平山郁夫氏を擁立して広島に瀬戸内海環境会議というシンクタンクも創ったらしく、忙しそうだ。
http://www.setonaikai-e-c.net/
それにしても久々なので話題が多すぎると思っていたら、いつの間にかお互いの夢を話し合うようになっていた。
彼は北九州の無添加石けんの老舗のシャボン玉石けんと手を組んで、シャボン玉EM石けんというものを開発したらしく、この14日から、その生産拠点をアメリカにつくるためNYに出かけて行くようだ。<http://www.shabon.com/>
「で、バウさんの方はどうですか?」と言う会話から私の出番となった。そこからいつもの通りの私の話しがはじまり、感度の高い彼は、すぐにうなずいてくれて、実家がある大阪の茨木市を受けもってくれることになった。それと隣の吹田市もすぐに決まっていった。
それにしても彼の頭は柔らかい。私の話が終わると同時に日本各地にいる信頼出来る人物を私に紹介し始めたのである。やはり彼に会いに来てよかったと、私はアゴを縦にゆらしながら、何度も深くうなずいてばかりいた。
春が近い。そう遠くではないだろう。冬には冬の意味合いがあって、その後、新芽が出そろい始める春が来る。
もうすぐ来る春が楽しみだ。これからが楽しみなのだ。 |
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