人生の曲がり角に差し掛かった時など、これはと言える運命的な一曲に出会うことがよくありますよね。その曲の中のメッセージに気づかされたり、その曲を聞いて突然、ハッと目覚めたり。
私の人生のなかでもそんな経験をたくさんしてきましたが、そんな経験の中でも、もっともあでやかに印象に残っている一曲が小田和正氏の『愛を止めないで』だったのです。
この曲に出会ったのは神戸でした。
1995年1月17日(満月の日)午前5時46分に起こった阪神大震災。
この直後から神戸に入って神戸元気村というボランティア団体を立ち上げたのですが、このあたりの話しをいつか何処かで書き残したいと思っているのですが、その中身はどの部分をとりあげても濃密な話しばかりで、一挙に書いていくには相当の時間と体力が必要となるので、少しづつ書き残していきたいと思います。神戸元気村の歩み:<http://www.peace2001.org/genkimura/>
この話しは大混乱期の1月が過ぎた、2月頃からのことです。その当時の私は働き尽くめと言う表現がぴったりと言える毎日を過ごしていました。
金曜の夜は今も関西で一番の人気を誇っているFM802で、その週末から新規に始める予定のプロジェクトのことを話したり、地元ローカルテレビのプロデューサーと、報道番組の絵柄を考えたり、全国各地から毎日やってくるグループの申し出を聞き取りそのお世話をしたり、それはそれは大変な毎日を過ごしていました。
街には、これって出稼ぎだよなと思わせる、雪の中から出て来た北海道と東北ナンバーのパワーシャベルが、まるで無機質なカマキリを思わせるように、倒壊家屋やビルやマンションや高速道路を更地にしていった時期でした。
2月の中頃からの私たちの主な仕事は、この解体業者たちを説得して、解体直前の家からたとえわずかであっても、アルバムや位牌や貴重品などを取り出す「宝もの探し隊」というプロジェクトを中心に展開していました。
解体業者としては、やればやるほど国から解体費として多額のお金が出るわけで、ところが、立ち会いに来たその家の住民にとっては、思い出深い家屋が目の前で壊されて行くことだけでも精神的な心労なのに、たいていの場合は、家の中の貴重な思い出の品々を目の前でゴミ扱いされるわけで、そんな緊迫した両者の間に立って「ちゃっと待った」と宝ものを探す時間を手に入れるのは大変なことでした。
中国の天安門事件で、戦車の前に一人の青年が立ちはだかって、大きく手をひろげて戦車の走行を止めた時の映像を見た事のある人も多いでしょう。
宝もの探し隊に参加してくれた学生たちも、それと同じぐらいの勇気を出して、重機の前に立ちはだかって、場合によっては解体業者と喧嘩までしながら時間を稼ぎ、その家族の宝ものを探すプロジェクトを繰り広げていたのです。
私がこのプロジェクトをやろうと決意したのは、2月のはじめの頃でした。
神戸元気村の近くで、おばあちゃんと解体業者が喧嘩しているという話しを聞いて、すぐにその場所に駆けつけたら、興奮したおばあちゃんが、エンジン全開のパワーシャベルのキャタピラーに泣きながらしがみつき、自宅の敷地内への重機の立ち入りを拒んでいたのです。
このおばあちゃんは、いつも炊き出しを食べに来ている近所の人で、話しを聞くと、解体することを聞いたのが一日前で、滋賀に住む息子に連絡出来たのが今日の朝。家の中には5ヶ月前に亡くなったご主人の遺骨が残されていて、どうしてもその遺骨だけでも取り出したいとのこと。
私ひとりではどうしようもなかったけど、あんたが来たからあんたに頼みたい。なんとか遺骨を取り出して欲しいという話しになっていったのです。
その話しを東北ナンバーの重機に乗っていた荒っぽそうな男に、もう一度私から話しをしたのですが、さすが、おとなしそうなおばあちゃんをここまで興奮させた男です。私にも容赦なく大きな声で罵声をあびせてきたのです。
そこで私は機転を利かせて男を重機からいったん降ろして、そのスキに重機の鍵を抜いて「一時間でこの鍵を返してやる。一時間だけ時間を貸せぇ〜!この中にある遺骨が、もしお前のオヤジの遺骨やったら、どうすんじゃぁ〜!」とヤクザの親分になった気分でどやしつけてやったら、その男はやっとおとなしくなったのです。
さて、ここからが大変でした。なんせ倒壊家屋に入るのは始めて。最初は一階のつぶれた場所から中に入ろうとしたのですが、なかなか中に入ることができません。
そこで思いついたのが、屋根を破って上から入る方法だったのです。居合わせた学生ふたりにも手伝わせて、瓦をはずしてやっと2階の天井の部分までたどり着いたのですが、ここで思わぬ障害物があらわれたのです。2階の床に敷かれていた畳が出て来て、その下に行けなくなったのです。
そこで、ふたたび登場するのがパワーシャベルとあの男。今度は何度も何度もその男に頭を下げて、パワーシャベルで屋根に大きな穴を開けてもらい、なんとか畳一枚を取り出す事に成功して、やっと一階の天井部分にたどり着いたのです。
ここから私の生涯でたった一回きりの貴重な体験をすることになりました。
一階の天井の板を外したところ、もう一枚タンスの裏側のようなベニヤの板が出て来たのです。そこでその板を破ってみたら、その先の薄暗い場所に白い布に包まれた遺骨があらわれたのです。『わぁ!見つけた見つけた!』
ところが、その遺骨までは手が届きません。私と遺骨との間には、まわりを囲うように筒状のボックスのようなものがあるんです。そこで私はそのボックスのようなものの中に体を乗り出して、遺骨を拾い上げて、ふとまわりを見て驚きました。
そのボックス状の箱は、仏壇だったのです。仏壇が前に倒されて、その仏壇の
上部となった後ろの壁を破って入って行ったのです。私はその状況が分かった時に仏壇の中で身震いしましたが、もう後には引けません。まわりを見渡せば仏像と位牌も三体あり、それもろとも回収しました。
仏壇の裏を破った変なおじさんが元気村にいるらしい。いつの間にかその話しが関西圏の各大学の学生たちの間で評判になっていき、そんな会話のなかから学生たちがたくさん参加してくれた「宝もの探し隊」のプロジェクトが結成されていったのです。
私たちがこのプロジェクトをやり始めた頃は、灘区と東灘区の民家だけを中心にしていたのですが、口コミでこの活動があっという間に阪神間に伝わって行き、神戸のいたるところから申込みが殺到していきました。
そこで私たちは、灘区と東灘区の他の地域は、私たちと同じ様なグループに仕事を任せるための実地体験をしてもらい、神戸元気村の中では、一番多い時で1チーム6人体制で、5チームを動かすようになっていったのです。
その5チームが、まだ薄暗いパワーシャベルが動き出さない早朝から、体力が尽き果てる深夜まで、ワンチーム一日10カ所程度、宝ものを探す毎日を繰り返していったのです。
たいていの現場は2階建てなんですが、その一階部分が1mぐらいに圧縮されていて、その上の2階部分と屋根もふくめても3mもない状態です。
大切なものは、ほとんどが一階部分にあるため、その真上らしき屋根の瓦をはがして、そこにチェーンソーなどを使って穴を掘りすすんで行き、そこで手作業が出来る空間を徐々につくりながら、ホコリにまみれて作業をするというものでした。
3月に入った頃、名だたる大手ゼネコンからも、大型マンションや県営住宅や市営住宅の解体が始まるので、宝もの探し隊を派遣して欲しいという連絡が入って来るようになりました。
ところがです。その頃からひとり欠け、ふたり欠けと、しだいにプロ級にまで技量を伸ばしていったリーダー格の学生たちが、自分の本来の生活圏にもどりはじめていったのです。
全国各地から集った人たちが、もうすぐ神戸からいなくなるという噂は、急速に阪神間の他の団体からも毎日のように伝えられて来るようになっていきました。たいていの場合は、だから俺たちも3月末で解散するからねという話しがついてきました。
その辺りから、私は悩み出したのです。
この激動の3ヶ月。出来うる事はすべてやってきたと自負出来るのですが、それはここに集った人が居たからこそ出来たことばかりで、この先、人があまりいなくなると何もできなくなるという悩みが始まったのです。
私はだんだん一人の時間を持つようになっていきました。これはそれまでの3ヶ月の中ではまったくなかったことです。
一人の時間をつくったのは悩むためでした。たいていの人はあまり悩まない生活をすることが幸せだと考えているようで、この時の私が何故、わざわざ悩むために時間を使い始めたかをあまり理解することができないでしょう。
これは大切なことなんです。
確かに悩んでいる時は大変で、その大変な峠を乗り越える人があまりにも少ないので、頭のおかしい人たちが唱える『常識』では、悩むのはやめましょうと
なるわけです。また、その常識の中では悩んだら人に相談しましょうともなるわけです。親切な人はその相談にもあたるわけです。
その結果、自らの意思で答えを求める人が少なくなって、その答えを得たと思ったモノも、所詮は人がつくった『常識』の中でしかないものなのです。
要は自分の人生ぐらいは、人に頼るのではなく自分で舵取りをしなさい。そのためには自分の外に答えを見つけるのではなく、自分の中で悩んで悩んで悩み尽くした結果、その悩みの峠を越えたあたりからあらわれてくる玉手箱のような答えをものにしなさいと言うことです。(難しいかな?)
勘違いしないで下さいね。たくさんの回数を悩みなさいと言っているのではないのです。悩んだ時は徹底して自分一人で悩みなさい。そして自分の力で乗り越えなさいと言っているのです。そしてそのまわりにいる人の本当の親切とは
黙ってその人を見続けてあげるということだと思うのです。
なぜ黙って見続けるのがいいのかと言うと、その人にとって、その苦しい時が人生の中で大変重要な『機会』であると考えられるからです。
形を変えて話しをすると、自分自身で乗り越えて行く人が増えてこそ、真の民主主義へとつながって行くのです。
これを習慣付けて、いろんな問題が起きる度に、人の助けを頼らずに、自分自身で悩むことを繰り返して行くと、ある日突然悩みってものは、実は無いんだということに気づくのです。(これが大切なんです)
実は幸せなんですね。悩める事があって、悩める自分が居て、悩める自分の扉を新たな方向へ道を開いて行ける自分がいるってことが。その分、自分の人生に向かわせる意思が明確にあらわれてくるからです。
いわば、悩みこそ生きる力なんです(笑)
しかし、この時はそんな理知的に考える余裕もありませんでした。毎日毎日、
寡黙になって行き、その先(未来)のことばかりを悩んでいたのです。
そんな時に、おもしろい二つの話しが舞い込んで来ました。
一つは、神戸きっての老舗のレストランと言われてきた御影公会堂食堂への説得が成功して、この付近最初の復活オープンをさせようというプロジェクトが動き出したのです。
御影公会堂というのは、昭和の初期、白鶴酒造のオーナーが私財を投じてこの地域に贈与されたもので、戦渦も阪神大震災も乗り越えてきた建物です。
その地下にある御影公会堂食堂は、アールデコ風の様式が残っている数少ない文化遺産でもあり、特に地域の人からは高いステータスを保持しているレストランでもあったのです。
御影公会堂食堂:<http://kubori.net/fathers/view/mikage/>
また、この食堂のマスターは、その当時、神戸市飲食業何とか組合の代表をやっておられた方で、このお店の一早い復活は神戸の飲食業に強い影響力を及ぼすと考えて、私たちはそれまでいろんな方法でアプローチを重ねていたのです。
私たちは新しいチームをつくり、そのお店の中で寝泊まりしながら避難生活をしていたマスターの家族と一緒に割れてしまったお皿の処理やその新しい食器の買い付け、食材の手配、看板、フライヤーの手配など多方面の協力をやりはじめていきました。
この新しいプロジェクトのリーダーに、草島進一、通称スターンになってもらいました。このスターンについては少しばかり説明をしたいと思います。
スターンは、アウトドア雑誌のBEPALにも連載記事を書いていたライターで、この震災の時は、大手有機野菜宅配のラデイッシュボーヤのトラックに満杯の野菜を詰め込んで運んで来てくれて、その時に私と出会い、私がカヌーの船首部分を意味するバウというあだ名と知って、「じゃぁ、今日から僕は船尾の意味のスターンと呼んで下さい」と言って、その日から神戸から出て行かずに、私の右腕となって神戸元気村を二人三脚で運営していったすぐれモノです。
今は、山形に戻って保守王国の鶴岡市で改革派市議会議員としてトップ当選して、「月山炎の祭り」などの文化活動も活発に展開してくれています。
草島進一(スターン) <http://www.kusajima.org/>
政治家ブログ<http://www.blogfan.org/celeblog/politician/1125329817.html>>
御影公会堂食堂の再生プロジェクトが動き出した頃に、もう一つの面白い話しがスターンからもたらされました。
西日本で大きなコンサートを数多くやってきた、関西最大手のクライアントから、私たちの柔らかい頭に期待をかけたのでしょうか、小田和正の野外ライブを引き受けて欲しいと伝えてきたと言うのです。
スターンはたいへん興奮していましたが、今から思えば恥ずかしい話しになるのですが、私はその当時、小田和正と言う名前が誰だか分からなくて、「じゃぁ、公会堂食堂のオープニングも兼ねて、公会堂の裏の公園で同じ日にやればどうだ」と軽い調子で答えてしまったのです。
この日から2週間後に公会堂食堂のオープンと小田和正の野外ライブをやることが決まったのですが、その2週間を、私は他のメンバーと違う目的に使って行きました。
その当時まだやっていた6つのプロジェクトを、順番に解散させていこうとしたのです。ここに至るには、いろんなことを考えて悩み尽くしました。
ちょうどその頃、灘区の保健所から、そろそろ暖かくなってきたので衛生上の理由から炊き出しをやめる方向で考えて欲しいという提案があったので、それらを整理しながら元気村の他の機能も閉めてしまおうと考えていったのです。
元気村の炊き出しをやめると言うことは、大きな出来事でした。
一番多い時は、一日7000食の食材を流通網も何もなくなった神戸に集めて
神戸元気鍋と名付けた炊き出しをやってきたのですが、この3月の頃はすでに食器もリユースにしたり、バイキング形式にして避難所となっている隣の御影公会堂や御影高校や六甲小学校の人や近隣の人に喜ばれていたのです。
しかし考えてみれば、そんな私たちが地域の飲食業の復興の妨げになっていると考えてみると、やはりこのままいつまでも私たちがこの地域の炊き出しの代表だと言う様な顔をして行く訳には行かず、そろそろ影にまわって行こうと思った訳です。
その結果、やはり他の団体と一緒に4月になれば静かに消えて行こう。いやちょっと待てよ、いったん私ひとりになって、それから神戸に住み着いて、神戸の人をまた最初からひとりづつ集めてやっていこう・・・とか、いろんなことを考え、悩みながら片付けていきました。
さて、その当日がやってきました。今でもおぼえている4月3日です。
この日は朝からスタッフたちが準備に走り回っていました。私は事務所で一人電話番をしていましたが、近くのおばあちゃんが「あんたが行かんで、どうすんの」と言って留守番を交代してくれたので、走って事務所を出ました。
事務所を出たら目の前の石屋川公園とその向こうにある石屋川をはさんですぐに御影公会堂が見えるのですが、公会堂の玄関あたりには、あまり人が集っていません。
公会堂の裏の公園に人がたくさん集り出していたのです。その公園に向かって
走り出している人もたくさんいます。『そうか、ライブだ』私はたくさんの人と一緒に裏の公園に向かって走り出しました。
簡易につくられたコンパネ製のステージ横にちょうど着いた時に、ステージの上で大きなアンプをつかった本格的なライブの音が鳴り響いたのです。
♪やさしくしないで・・・
この出だしを聞いて、はじめて小田和正と言うのがオフコースだとわかったのです。そして、次ぎ次に出て来る歌詞の中のメッセージが、私のこころに突き刺さっていったのです。
♪君はあれから 新しい別れをおそれている
♪僕が君の心の扉をたたいてる 君の心がそっとそっと揺れ始めてる
♪愛をとめないで
♪そこから逃げないで 甘い夜はひとりで居ないで・・・
『そうか、逃げるなってことを言いに来たのか』
♪君の人生がふたつに分かれてる そのひとつがまっすぐ僕の方へ
♪なだらかな明日への坂道を駆け登って いきなり君を抱きしめよう
『うん・・・・・・・・・・・・』
♪愛をとめないで
『そうか たったそれだけでいいんだ・・・』
♪そこから逃げないで 眠れぬ夜はいらない もういらない・・・
♪愛をとめないで そこから逃げないで 素直に涙も流せばいいから
♪ここへおいで くじけた夢も すべてその手にかかえたままで
『もっと泣いてもいいんだ!我慢しなくってもいいんだ!』
♪僕の人生が ふたつに分かれてる
♪そのひとつがまっすぐ・・・・・・・・・
『よーし・・・・・・・・・・・・・・・』
ステージの左で、泣きながら聞いていた私の前には一本の桜の木があって、満開の花を咲かせていました。山の方には開通したばかりのJRの電車が走っていました。
全てが終わった後、私はひとり御影公会堂と神戸元気村の間に流れる石屋川に
架かった大きな水道管の上に座って、海の方を眺めていました。
『それにしてもすごかった。私のためにあの曲を歌いに来てくれたんだから。
さすが、小田さん。やっぱオフコースだよな』
すぐに、これから先をどうするのかと考え出したのですが・・・・
『そりゃ「もちろん」=「オフコース」だってば・・・・・』
私はひとりでクスっと笑って、海の方向の夕焼けを見ていました。
『愛を止めないで』を、この日聞かせてもらったおかげで、神戸元気村の7年6ヶ月の歴史がみごとに再スタートしたのです。小田さん感謝です。ありがとうございました。
小田和正 神戸元気村ライブ:スターンがアップしてくれました。短いですが
http://jp.youtube.com/watch?v=eSR5SU4CQ1g
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