大辞林によると、物事が一気に正反対に変わること。一気に逆転することを、
どんでん返しと言うらしい。
これから書き進めていくのは、ほんのちっぽけな市民系メディアとアメリカ大使館との間で繰り広げられた、20日間の攻防を記録したものです。
その当時の私は、たくさんの仲間から支援をもらって、ニューヨークタイムズやワシントンポストにアメリカ国内のメディアでは初のこととなった、劣化ウランの被害を公表する広告を出して、そろそろアメリカ政府筋から何らかの反動が出て来るかも知れないと思っていた時期でした。
NYタイムズNO,2(アメリカ国内初の劣化ウランキャンペーン)
http://www.peace2001.org/gpc/02gpc_main_nytimes.html
ワシントンポストNO,6:(米国政府関係者と議員さんが対象)
http://www.peace2001.org/gpc/03gpc_WT_ad.html
2003年2月12日。この日私は仙台港の近くの温泉施設の駐車場に車を止めて、『この風呂に入るか、次ぎの目的地に向かうか、どっちにしよう?』と考え中でした。
その時、携帯がなったのです。
「もしもし、急に電話をしまして申しわけないです。○○新聞社会部のSと申しますが、少しばかりお話しをお伺いしたくて電話をしたのですが、今大丈夫でしょうか?」
彼とは、それまで何回か電話のやり取りをしたことがあって、その頃私が配信をしていた市民系メディアの【Boomerang】(ブーメラン)と名付けたメールニュースを読んでくれている人だとわかっていたので、私は軽い調子で「今からお風呂に入ろうと思って、車ん中でタオルを探していたとこなんですが、なんかあったんですか?」と答えたところ、彼から思わぬ言葉が飛び出して来たのです。
「実はですね、アメリカ大使館から日本のメディアに対して、劣化ウランのことは報道しないで欲しいという通達がまわって来たんです。そこで、バウさんにそのことについてのコメントを頂きたいと思いまして電話をさせて頂いたのですが、この電話でコメントを頂けますか?」
今の今まで、のんびりしようと、お風呂に入っている自分を想像していた私には、この話しの内容がチンプンカンプンな固さに聞えて、なかなか理解が出来ないでいました。私はワンボックスカーの後部座席でタオルを探しながら、「え〜っと、アメリカ大使館が劣化ウラン?」
「もう一度言いますから、要点をよく聞いて下さいね。アメリカ大使館から通達があったんです。劣化ウランを使ったからと言って、ガンや白血病の原因となる、科学的な根拠はいっさい確認されていないので、日本の一部の人たちが言っているような危険なものではない。だから紙面や放送の中では留意してほしいという内容なんです」
私は彼の話しの真ん中あたりから、興奮がはじまり上半身をブルブルと振るわせて、顔もしかめっ面になっていきました。「という事は、日本のメディアに劣化ウランのことを報道するな!って言ってるの?アメリカ大使館が。」と聞き返しました。
彼は「そうです。弱気なメディアは、劣化ウランのことを報道しないところも出て来るかもしれないです。ですからそのことについてバウさんのコメントが欲しいのです。」
「そうか、そんなら私のコメントより、もっと一流の人からコメントを貰った 方がいいよ。カナダのドラコビッチさんがいいです」
と言って、大阪で夜間高校の教師をやりながら、カナダのUMRCのドラコビッチ教授と毎日のように、劣化ウランのやりとりをしている吉田さんの電話番号を紹介したのです。
その当時、UMRCのドラコビッチ教授といえば、世界屈指の劣化ウランに関わる医科学系研究者で、私たちも彼の研究の支援を始めたばかりだったのです。
「ん?コメントをカナダからもらって、それ、社内的に記事に出来るの?」
「出来ないかも知れませんが、僕、がんばるしかないと思っているんです」
「そおか〜。う〜〜〜〜んっ」
日本のほとんどのメディアが、劣化ウランの医学的影響を独自で調査していないと、日頃から感じていたのですが、ここにきてこのアメリカ大使館からの通達が出たことで、弱腰のメディアがおびえてしまって、この先の劣化ウランの報道は消えて行くのかも。「う〜〜〜んっ う〜〜〜〜んっ」
これは、まるであの悪名高い米国愛国者法を日本にまで広げてきたようなものだ。米国内のメディアにジョン・レノンの『イマジン』の放送を自粛させようとしたあの手法とそっくりだ。
結局、私のコメントは「う〜〜〜〜んっ う〜〜〜〜んっ」と濁りきった、うなり声だけしか渡せませんでした。
『病気の原因となる科学的な根拠は見つかっていないから報道するな?』
あれだけガンが多発しているのに、あれだけ白血病の子どもが増えているのに、何が報道すんなじゃ〜!」「一度ヒバクシャになったら、直すクスリがないのを知ってるんかぁ〜?」「う〜〜〜〜んっ う〜〜〜〜んっ」
私は携帯を切ってからも、長い間、濁った声のうなり声しか出すことができないでいました。「う〜〜〜〜んっ う〜〜〜〜んっ」これはそうとう苦しんだ
時にしか出ない声です。「う〜〜〜〜んっ う〜〜〜〜んっ」
しばらくして、その濁った声は、体のあちこちから吹き出してきた、怒りに姿を変えていきました。そして爆発したのです。
『よ〜し、やる気になってきたぞ! やったるぞ、ひっくり返したるぞぉ〜』
この時、私は怒りのピークに達していたのです。
時間にすればたった2秒間ぐらいのことだったのですが、その2秒の中で画期的な二つの言葉が生れてきたのです。
『人文字』『ひろしま』う、ん?
その意味がわからないのです。それでも頭をひねって30秒ぐらい考えたら、解釈ができたのです。
『人文字』を『ひろしま』でやれってことか?『人文字』って人が集まって文字にすることだよな。という事は文字を何にするかだよな。そうか、劣化ウランにしろ!ってことか?劣化って漢字、難しいよな。そうか、そうか、DUのほうがやりやすいか。という事は『NO DU』か。1万人集めよう。もう少し文字を増やそう。『NO WAR NO DU』で行こう。それを人文字で描いて、ヘリコプターから映してもらえって訳か〜! そうかそうか
あれだけ怒っていたのに、解釈に要した数十秒後には、心の底から笑い吹き上がってきたのです。
今から思えば、この数秒間は画期的な瞬間でした。私は数年前から劣化ウランについて、社会の裏側に隠くそうとしてきたこの問題をくつがえしたい一心から、一度の配信で1万を越える人にメールニュースという形でこれらの情報を流してきたのですが、今回、その出先機関のアメリカ大使館から、小さなメディアの私たちに対して一方的に、ゲーム開始のサイコロが振られてきたのです。
しかしこの『人文字』で、見事な仕掛け花火を打ち上げる構想が生まれたのですから、このわずか数十秒間が、画期的な瞬間だったと思っています。
この構想が生まれてから3分もたたないうちに、私は広島生まれで岡山の笠岡に住んでいる親友のしゅんくんに電話をかけていました。しゅんくんに『NO WAR NO DU』の人文字の構想を話して、広島で待ち合わせしようと誘ったのです。
それから3日間、寝る時間も惜しみながら高速にも乗らずに(正確に表現すると高速代がなかったのです)下道ばかりで広島に向かいました。その道すがら私はこのゲームの細かい計画をたてていったのです。
クタクタ状態でたどり着いた広島で、しゅんくんに会って話しを始めたのですが、彼と少し話しをしただけで、彼が本気モードになってくれている事が分かり、その時から彼にほとんどのことを任せることにして、私はあまり目立たないようにしていきました。
彼と私が最初に会いに行ったのが、ひろしま灯籠流しの大ボスの下井さんのお店でした。そこでしゅんくんがいろんなお願いと提案をしてくれました。
開催場所を中央公園にしよう。開催にこぎつけるまでの事務所の代わりに、商店街が管理しているパルコ横の一等地のアリスガーデンにテント村を建てればどうかなど、とんとん拍子に話しが進んでいきました。
このテント村って画期的なんです。広島の人だったら誰でも知っている繁華街の真ん中に人文字キャンペーンのためのテント村ができるのです。
私がそれまで見てきた広島の平和活動というものは、あまりにもプロ化した集団がいつも同じ顔ぶれで組織的に展開しるように思っていて、ごくごく一般的な人は、なかなかその中に入って行きようがないと感じていたのです。
しかし、今回はそういう人たちばかりになってしまっては、1万人という人数に達っすることが難しいと考えていたのです。
そこで、私たちが新しい形としてやりたいと訴えたのが、誰でもどんな人でも
子どもと一緒でも、一人からでも参加出来る仕組みにしていこうと言うものでした。団体に所属している人には、今回だけは個人に立ち戻って一人の意思で参加してもらおらというものでした。
『個人に立ち戻って』『個人の意志で』という提案は、その当時の広島の平和活動を知る人にとっては、たいへん画期的な提案でもあったのですが、また同時に「たいへん大きな勇気」と「ど根性」と「ど迫力」がなければ言い出せない提案でもあったのです。
と言うのも、なんせ広島です。日本で一番年季の入った硬派な平和活動家が集った街なのです。そんな中で「個人に立ち戻って欲しい」「個人の意志で」と訴えたところで、受け入れてもらえないかも知れないのです。
しかし、それまでのような硬派な人ばかりの平和パレードは、2000人を越えることがなかなかなかったのです。
だから、どうすればいいかと考えた結果、ごくごく普通の人にも参加してもらおう。そのためには今までの広島になかったやり方をつくって行くしかない。
となって、一般の人たちに人気があるパルコ横の一等地のアリスガーデンを借りることになったのです。
その後、広島の平和活動の大御所たちに呼びかけて開かれた第一回の会合も、しゅんくんが進行役をやってくれて順調に話しがまとまり出して、この人文字の代表に温厚な人柄の神戸大の哲学の教授でもある嘉指(かざし)さんになってもらい、その人文字の開催日を3月2日としました。
しかし、3月2日開催の決定は、そこに集るメンバーを驚かせたようでした。
いままでの習慣からだと、これだけ大きなことをやるのだったら、最低3ヶ月
の準備期間が必要だと思う人がほとんどだったのです。
ところが今回は、わずか2週間しか準備期間を置かないのですから、驚くのもうなずけます。が、しかしこの日程を私は強行しました。その結果この日を境に、緊張感が生まれたようで、メンバーはそれこそ寝る時間も惜しんで本気になっていきました。
この会合が終わってからの私は、一人で動くようになりました。
私の頭の中でピントを合わせていたのが、開催当日、空の上からカメラをまわしてくれそうなメディアを探して説得することでした。そこで、広島は地元の人たちにまかせて、一人で他の地方をまわって行くことにしたのです。
まず、九州は天神の西日本新聞に取材依頼のお願いに行きました。西日本新聞社は九州一円に読者を伸ばしていて、九州ではナンバーワンの購読者数を持っています。以外なのは広島の隣にある山口県にも購読者が多いのです。
広島に近い四国4県のメディアは、最初から諦めていました。この四県の地方紙は、今回のようなヘリコプターを飛ばしてまで取材をしない体質だと最初からあきらめていたからです。
そこで、島根、鳥取、岡山も含めたこれらの地方紙に記事などを販売する業務をしている、共同通信社を重点にして動いていきました。広島にある支局に説明に出向き、その上の機関となる大阪の支社にまで、ヘリを飛ばして欲しいとお願いに行きました。
もし、共同通信がいい絵柄の人文字の写真と記事を書いたなら、全国の地方紙が一斉にその記事を載せてくれる可能性があるからです。
そんな動きの中で、一番力を注いでいったのが東京にある報道機関でした。
海外のメディアの中で、日本の共同通信のような役割を果たしているロイター通信と、一匹オオカミのような動きをいつもしてきたCNN。そして世界のメディアの中枢にあると言われてきたBBC。この3社には、手こずりながらも本気で提案を上げる努力をしていきました。(ホント、手こずったのです)
そして、テレビ局です。私が選んだのはニュース23でした。数年前に一度番組に出たことがあったのですが、ひいき目で言うのではなく、その当時の報道番組の中で一番の影響力を持っていると思っていたのです。
次の日に有楽町の外人記者クラブで記者会見をすることも知らせたいと思って、昼食時の赤坂に行きました。TBS系の会社に勤めている友人のNさんと蕎麦屋で、ニュース23のプロデューサーを待ちましたが、姿をあらわしたプロデューサーのYさんは忙しいらしく、5分たらずの時間も席に着くこともなく、結局はお互いがお店の中で立ったままの状態で話しを進めて行きました。
短い時間ですが、私はここぞと言う勢いで思いっきり話しをしていきました。
劣化ウラン弾のこと、アメリカ大使館の通達のこと、それをくつがえすためにやろうとする広島の人文字のこと、出来れば明日やることになった、外人記者クラブの記者会見からカメラをまわして欲しいと訴えたのです。
結局Yさんは、こちらの話しに相づちは打ってくれたのですが、彼から取材をするという明解な解答は得られませんでした。
翌日開かれた外人記者クラブで行われた記者会見には、数日前に在日大使館を閉鎖したばかりのイラク大使にも出席していただき、広島からも主だったメンバーがスピーカー役で来てくれたのですが、こちらが想定していた主要なメディアは取材にあらわれませんでした。
会場にはテレビカメラが一台もなく、しかし、不思議に思えたのが、なぜか会場がほぼ満席だったことです。ところが雰囲気が煮え切れていないのです。
この外人記者クラブの会見から、人文字の開催日まで、一週間もありません。
次ぎの日から私は気分を変えて、事前報道に的をしぼって行きました。神戸のスタッフにお願いして、全国のFM局とAM局の人気キャスターを調べてもらい、そのキャスター宛にFAXとメールと電話で、番組の中で人文字のことを話して欲しいとお願いして行ったのです。
嬉しいかったのは、全国20を越えるラジオ局でその地方の人気キャスターが、何らかの言葉で人文字のことを伝えてくれたのです。特に私が震災時に拠点を置いていた関西圏では、5局のキャスターから本番中のスタジオから電話取材をいただきました。
このことで、少し揺らぎ始めていた私の気持ちが落ち着きました。『やっぱ、わかる人にはわかるんだよなぁ・・・』と、また新たな勇気が湧いてきたのです。
開催日が近づいてきて、東京を離れる時が来ました。私は最後の最後にと決めていた赤坂のTBSにもう一度向かいました。今度はテレビ局の外ではなく、建物の中に押し掛けて行って、いい返事をもらいに行こうと考えたのです。
ロビーの椅子に座って、携帯からYさんに電話をかけましたが、留守電になっていました。そこで案内係の人にお願いして探してもらうことにしたのです。私が座った隣では、永六輔さんが打ち合わせをしていました。
『そうか、永六輔さんもラジオ番組をもってたっけ、後で話しかけてみるか』
その時、携帯がなったのです。
「あぁ、どうもどうも、あの話しは動いてますよ!スペシャルバージョンにする予定で動いています。安心してください。OKです。」
短い会話だったのですが、私は有頂天になりました。そばにいた永六輔さんのことはすっかり忘れて、赤坂から離れて行きました。
開催日前日の3月1日。私は広島にいました。アリスガーデンのテント村でいろんなお手伝いをはじめていました。昼からは会場となる中央公園で人文字で描く『NO WAR NO DU!』の文字をグランドにレイアウトをしていくお仕事のお手伝いに行きました。
そこで見つけたのが四万十塾のとーるです。彼はカヌーや焚き火の横で見かけた姿ではなく、計算機と図面を持って、プロの測量士いっしょにグランドを走り回りまわっていたのです。
とーるにどうして計算機を持ってるのと聞くと、明日何人来るかまだ分からないので、何人来ても文字が書けるように、縮尺を計算しながらレイアウトをしているとの説明が返ってきて、感心させられました。そんなところまで想定してみんな動いているのですから、たいしたものです。
私のこの日のお仕事は、大声のとーるから指示をうけて、測量されたポイントにキャンプ用のペグを打ち込み、そのペグとペグにビニールひもを繋いでいくお仕事でした。
この夜は、中央公園の中の芝生で寝ました。夜中に雨が降ってきたので、途中から車に戻ってぐっすり眠りました。
朝起きてみるとグランドの中で、とーるが一人で何かやっているのです。よく見ると、スポンジとバケツを持っているようです。
きのうレイアウトを決めた人文字の部分に、昨夜の雨で水たまりができて、このままだと大変だと言うことで、一人もくもくと水取りをやっていたのです。
早朝から集ってきたスタッフたちが、一人、また一人。この動きに静かに参加しはじめました。私も車にあった座布団の中のスポンジを取り出して手伝いました。しかし、静かなのです。みんな無口にグランド中にちらばって、もくもく、もくもくと、ただただ静かなのです・・・・・。
この早朝の静かな動きを見て、やっとみんなのこころがひとつになったと感じて、私は安堵したのか、涙を流してしまいました。
グランド全面から、人文字のビニールひもが出てきた頃から、徐々にお祭りの
ような人だかりが出来てきました。この時スタッフ全員がまだ心配していたのです。はたして何人来るのだろうか? だれもまだ読めていなかったのです。
やがて、100人来て、500人になり、1000人を越え、2000人を越えて、4000人をも越えて、6000人になった頃、私は本部から一台の無線を渡されました。
聞けば、これから先は、500人多くなってもその反対に少なくなってもレイアウトを微妙に変化させていかなければ、上空から撮る写真の人文字の精度が悪くなる。だから、隣のあのホテルのレストランから無線を使って指示が欲しいと言うものでした。
そこで、急いで中央公園が見下ろせるリーガロイヤルホテルの33階にあるレストランに行くと、身知らぬご夫婦が出迎えてくれて、私を人文字を見下ろせる窓際のボックス席に案内してくれたのです。
そのご夫婦から聞いたのは、すでに前々から、この日の私の役割は、この席に座ってレイアウトを指示すると決まっていて、その私の面倒をみるために二人でここで席を確保しながら待っていたと言うのです。頭が下がりました。
最初の一回目のミーティングしか出ていない私が、恥ずかしくなりました。
その後、多少のレイアウト変更を無線で伝えましたが・・・・・
ある瞬間から私の目線が空に釘付けになっていきました。現れたのです。最初のヘリコプターがバタバタと翼の音をたてながら。その後、ヘリが一機づつ増えて行き、とうとう9機のヘリが上空を円を描いて舞い始めたのです。
ヘリの上空には、私たちがチャーターしたセスナも現れました。実はこのセスナは、どこのメディアのヘリも来なかったという場合を想定して、その時は自分たちで写真を撮ろうと、写真家の豊田さんにお願いしてセスナに乗ってもらっていたのです。
が、しかし、9機もヘリが来てくれたのです。そしてクライマックスを迎えたのです。グランドの6000人を越える人たちが、みんな手をふって大声で何かを叫んでいるようです。私は無線でその声を拾いました。
『NO WAR NO DU!』 『NO WAR NO DU!』 『NO WAR NO DU!』
この大声が10分ぐらい続いたでしょうか、撮影を終えたヘリが一機つづグランドの上空から離れていきました。やがて人文字に参加していた人も、これで終わったと思ったのでしょうか、徐々に文字列から離れて解散モードとなっていきました。
私も中央公園に行きたくなって、ホテルから出て、公園に向かおうとしたのですが、公園に向かう地下道の向こう側から大きな声が聞えてきたのです。
「戻って下さ〜い」「もう一度、撮り直しますから、戻ってくださ〜い」
聞けば、セスナから連絡があって、9機のヘリにはばまれて、何度も上空を行ったり来たりしたが、結局いい写真が撮れていない。もう一度、人文字をつくってもらいたい。撮り直したいと連絡が入ったらしいのです。
すでに、人文字は解散状態になっていて、5分の1ぐらいの人が戻って来ない状態だったのですが、残っている人がもう一度集まって映したのが下のサイトの写真です。
残念なことですが、人数が少なくなって、文字列も少し崩れた状態ですが、それでも、また見事に復活させたのです。
http://www.peace2001.org/gpc/03_hiroshima/news.html
この日、中央公園に最後まで残ったのは私でした。かたづけとゴミ掃除を終えてみんなは帰って行ったのですが、私ひとりグランドにあぐらをかいて座り込んでいました。
みんなには、忘れ物を取りにくる人がいるかも知れないから、私がここに残るよと、カッコのいい言い方をしていたのですが、実はもう歩けないぐらい疲れ果てていたのです。どうしてこんなに疲れたんだろうと考えていたら、そのわけがわかったのです。この2日間、何も食べていなかったのです。
暗くなりました。私がその頃住んでいたのは奥出雲です。広島から日本海の方へ向かって出雲往還を走って行くと島根と広島の県境にある赤名峠で、9時のNHKのラジオニュースがはじまりました。
そのニュースの中で言っていたのは、広島で戦争反対を訴えるために6000人が集って「NO WAR」の人文字をつくりましと言うだけで、「NO DU」のことは話さずじまいでした。やはりNHKは、劣化ウランのことをまったくふれていませんでした。
これは残念なのですが、それはそれ、すでにNHKの劣化ウランに否定的な体質を理解していました。取材依頼を重ねていた時から予想をしていたのです。
出雲の山奥にある隠れ家に近づいた頃に、そうだスペシャルバージョンと言ってたっけ、とニュース23のことを思い出しました。
家に着いて間もなくニュース23がはじまりました。その冒頭でスペシャルバージョンという意味がやっとわかったのです。SMAPが最初のシーンからあらわあれて、今日はいっしょにコメントしていくと紹介されたのです。
コマーシャルが終わって最初のニュースは、イラク上空の米軍の輸送機から、
降伏をうながすために大量のビラがばらまかれたというニュースで、2本目のニュースは、バクダットの日本大使館前からの生中継で、日本人は残り3人、大使館員は明日イラクから撤退するというニュースでした。
そして、3本目のニュースで、待ちに待った特集番組が始まったのです。
「一方、国内では、こんな動きがありました」と草野アナウンサー。
ニュース23:(2003年3月2日放送から抜粋)
http://video.google.com/videoplay?docid=6758583504933756654&hl=en
(いろいろ試してみたのですが、私のパソコンからはこの動画を見ることが出 来ませんでした。たくさんの人に見ていただきたいのですが・・・)
この『NO WAR NO DU!』の特集番組の後に、SMAPのコメントが入って、
番組最後に『世界にひとつだけの花』を歌った時は圧巻でした。
特集の中で主役として出ていた地球マン(松田卓也)の姿を思い浮かべながら、この曲の歌詞のメッセージにうなづいた人が、さぞかし多かったことでしょう。
それほど『NO WAR NO DU!』の特集番組の内容が良かったのと、この特集がその日の番組構成の中で、中心的な位置に置かれていたのです。
ニュース23を見終わって、私は奥出雲の山々が見たくなって、真っ暗な庭先に出ました。頭の中では『よ〜し、とうとうやったぞ〜!たった20日で、どんでん返しをやったんだぞぉ〜、ざまぁ〜みろ!』と叫んでいました。
奥出雲の山々は、近くもあり遠くでもあり、いつも通りに、ただただ深々とした静寂に包まれていました。そんな山たちに私は、何らかの形で賞賛してもらえるかもしれないと思って外に出てきたのですが、それは違っていました。
それどころか、たかだか人間社会のどんでん返しは、この山の呼吸ひとつにもおよばないと、静けさに教えられたのです。
『そうか〜』『これだけ、やったのに』『呼吸ひとつにも、およばんか〜』
『う〜〜〜〜んっ う〜〜〜〜んっ』『う〜〜〜〜んっ う〜〜〜〜んっ』
山のどんでん返しだったのです。
それからの数日間は、うなされながらの生活でした。
【参考資料】
劣化ウラン弾:
http://ja.wikipedia.org/wiki/劣化ウラン弾
しゅんくんがやっている、シルク布ナプキンが好評のアルデバラン:
http://www.aldebaran-well.com/
嘉指さんが代表のNO DUヒロシマ・ピロジェクト:
http://www.nodu-hiroshima.org/
日本外国特派員協会(通称、外人記者クラブと呼ばれる会員制クラブ)
http://www.e-fccj.com/
とーるが塾長の四万十塾:
http://www.40010.net/
松田卓也(地球マン)が初代事務局長になって立ち上げたアトム通貨:
http://www.atom-community.jp/08/
NHKスペシャル(別名『スペシャル遅かった』人文字から3年後やっと放送)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/060806.html
_/_/_/_/_/_/_/_/_/『NO WAR NO DU』人文字の経緯_/_/_/_/_/_/_/_/_/
2003年2月12日 仙台港でのタオル探し
2003年2月16日 広島平和パレードを見学
2003年2月17日 広島で初会合。開催日、場所、代表、役割分担決定
2003年2月23日 ブーメランのメールニュースで広報開始
2003年2月24日 記者会見・広島アリスガーデンテント村
2003年2月25日 TBSとの打ち合わせ
2003年2月26日 記者会見・東京外人記者クラブ
2003年3月02日 中央公園・『NO WAR NO DU』 6000人で開催
2003年3月24日 ニューヨークタイムズにNO,3『人文字』広告掲載:
http://www.peace2001.org/gpc/03_hiroshima/03gpc_hiroshima.html#nt
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