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バウの道中記 2006年3月21日 笠岡 |
【まぁだだよ】
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親友の俊くんと会った時の話しである。岡山と広島の県境の笠岡に住む俊くんとのんびり二人で彼の家に上がり込んで話しをするのは2年ぶりぐらいだろう。
私と彼はこの2年の間もいろんな場所で会っていたが、いつも周りに人がいたりして、なかなかゆっくりとお互のプライベートな話しが出来ないでいた。
彼と私の最初の出会いは今から15年あたり前だろうか、オゾン層保護活動で全国を廻っていた時、福山で活動をしていた市民グループに招かれて8人ぐらいの小さな会合をやった時のことである。
その当時、地球村の高木さんもオゾン層の講演を始めたばかりであったが、わたしの場合、より具体的な提案をするために全国を渡り歩いていた。
今から思えばその時代は【公害問題】という泥臭い、懐疑的な言葉から【環境問題】という未来思考、本来思考の言葉ごと流行らせることを会う人ごとに主張しながら、スマートな活動を先駆けてやっていた時期でもあった。
具体的に説明すると、市議会議員というものは、議員になるといろんな委員会に属するもので、その中の環境衛生関係の委員会の、それも【与党側】の代表格をつかまえて、市民グループと一緒に歓談させる舞台をつくると言う、一見遠回りのようなことからはじめていったのだ。
そしてその場でオゾン層の現状、対応策などを提案して、次ぎの議会の時に他の議員たちに優越感を誇らせながら、行政側に質疑応答をさせていくという手法を取り入れていたのである。
このやり方は、その当時の手法としては、大変画期的なロビー活動ということで評判にもなった。と言うのも大抵の人は野党側の議員たちと引っ付きながらロビー活動を展開していたからだ。
ロビー活動というものは、本来政策決定者である与党側に働きかけることによって、その効果を早急に生み出すものである。そこを勘違いして、【野党】とばかりすり寄って提案していても、なかなか効果は生まれないものである。残念ながら、日本の市民活動を引っ張る人たちはいまだにここのところを大きく勘違いしているようだ。
要は、どれだけ遠回りだと思っても、どれだけ孤独感を味わおうとも、仲間が少なくとも、終止一環して政策決定者側に提案をやり続けることが、ロビー活動だと私は思っている。
俊くんとの始めての出会いは、福山でのそんな一連の動きの中の、最初のオゾン層の現状という話し合いの中で始まった。その後福山の議員会館の中で繰り広げられた展開も勿論、短期間で効果を上げることになり、フロン回収が議論されて、予算化され出した。
このあたりの手法に興味があれば、サンマーク出版から出ている、『いのちの力をつかまえろ』を読んで欲しい。面白おかしく書いているので、一気に読み進んでしまうだろう。この本はもうすぐ絶版になるらしいので、早めにアマゾンで手に入れてもらいたい。
その後も時に応じて、俊くんと私はハグを組んで、さまざまなことをやることになっていった。日本海ナホトカ重油流出の時は、三国の海岸沿いにある松島水族館のイルカのプールが油だらけになった。
油膜除去作業のために睡眠不足のスタッフをかかえて困っていた館長が私に相談に来られ「イルカたちはまだ状況がつかめないでいるし、ナイーブな性格なので、できれば気持ちの穏やかな人たちを至急集めて応援して欲しい」と言う懇願であった。
私はこの時も、すぐに俊くんに任せたいと考えて、笠岡に電話をして翌日から俊くんに【ドルフィンプロジェクト】を立ち上げてもらうことになった。
数十人のイルカ大好き人間に集まってもらって、俊くんはこの夜から24時間体制のローテーションを組み、水族館に寝泊まりしながら、イルカたちのいのちを穏やかな心使いで守ってくれたのである。
この時嬉しく思ったのは、最初に体調がおかしくなり始めた赤ちゃんイルカを神戸の須磨水族館に疎開させる際に、その当時の館長が俊くんたちの献身的な貢献に感謝して、この赤ちゃんイルカにボランティアという言葉をひっかけて、『ラボ』と言う名前をつけてくれたことだ。
この事は美談となって神戸新聞に大きくとり上げられて、ラボちゃんは一躍震災から2年目の神戸の人たちの間で人気者になった。
震災から2年目と言えば、まだ誰もが水族館どころではなかったのだがこれを機に仮設住宅から親子連れのラボちゃん目当ての来館者が増え始め、あらためて多くの人がいのちの大切さを味わえたのだから、この【ドルフィンプロジェクト】の貢献は希望を失いかけていた神戸の地にも計り知れない効果を表わしたと今でも思っている。
俊くんとの共同作業で、もう一つ面白い物語が眠っている。今から3年前の2月頃、東北地方を廻っていた私に新聞記者の友人から一通のメールが送られて来た。
メールの内容は、アメリカ大使館から日本の主なメディアに向けて、【劣化ウラン】の報道については、一部の人たちの揶揄抽象だから、報道を差し控えて貰いたい。という主意の文面が届いたと言うのである。
この時の私の心境はいまだに説明しきれない部分がある。とっさに広島で『NO WAR NO DU!』の人文字を『ヤッテやるぞぉ〜』
という思いが生まれたのだ。
どうして広島なのかと言うことも、どうして人文字なのかと言うことも全く考えることさえなく、瞬時に思い浮かんだから面白い。
私はこの時も興奮しながら、すぐに笠岡の俊くんちに電話を入れて、話しをして、岡山に向けてひた走り、この思いつきから3日後には広島に入っていた。
広島での展開は全て俊くんに頼むことにした。彼は穏やかな人柄で一人一人丁寧に【人文字】のことを説明しながら、今回は団体の旗や、主義主張にとらわれずにみんな個人として参加してもらいたいと、説得を重ねて行き、人脈をつくっていってくれたのだ。
この人文字に参加した人は多いだろう。その後のニューヨークタイムズへ掲載するときに寄付金を寄せてくれた人も多いことだろう。
全ての人に感謝である。
嬉しかったのは、大空に一機目のヘリコプターが舞い出した瞬間である。その後、一機づつ現れて・・・・・CNNのヘリまで現れて、この日を境に日本のメディアはまた本格的に【劣化ウラン】の報道をやりだしたのだ。
http://www.peace2001.org/gpc/03_hiroshima/news.html
いやぁ〜懐かしい・・・そんなことを思いながら、俊くんとの会話は心地よく進んでいった。俊くんとかあちゃんのふみちゃんがやっている[あるでばらん]という会社をのぞき込んで欲しい。
http://www.aldebaran-well.com/
今回、私が俊くんを訪ねたのは、もちろん【弁当箱】の話しである。
俊くんは快く岡山を中心とした山陽地方の広報を引き受けてくれた。
話しが一段落して「その他で何か私に話しすること、あるかなぁ?」
と私は俊くんに問いかけてみた。
しばらく黙っていた俊くんは、いつものように静かな目線で、私にゆったり言葉を投げて来た。「バウさんは、もう死んでるんだよ」
私は無頓着なこの言葉に一瞬、戸惑いを感じたが、その言葉の意味を噛み締めるように頭の中で味わった。
「そうか、ひょっとしてすでに『おまけ』に入ってると言うことか」
俊くんは、分かってくれたと安堵したかのように静かにうなづいた。
ちょうど昼時だったので、スタッフのあやちゃんが作ってくれた美味しいリゾットを食べながら、言われたばかりの『おまけ』の人生について私は考えさせられた。
人間は、生まれた時から余命幾年かの人生を生きている。しかしそのことはつい忘れがちになるものだ。まるで永遠の時があるかのように、死ぬ瞬間を想定せずに生きてしまうのだ。
明日、来年、ひょっとして自分はここにいないかもしれないのだ。
親友はありがたい。これほど大切な言葉を直球で投げてくれたのだ。
今からは『おまけ』を大いに受け入れて、それも『大らか』『無心』に立ち戻って『生きている』という実感を存分に味わいたいという思いが、清水のようにわき出した。
のんびり・ゆうゆう・たんたん・在るがまま・・・・・
夕日が傾き出した帰り道、中国山脈を越える鬱蒼とした山肌の何処かから、木霊がかった不思議な言葉がにょっきり現れた。
『もぉ〜いいかい?』『もぉ〜いいかい?』『もぉ〜いい〜かい?』
私はついつい本音で返事した。
『まだまだや まだやることあるんや』『もうちょっとだけ・・・』 |
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