「地雷を踏むような気がしてしょうがない」
カンボジアに行く前、何人かの友人に「足のある姿で会うのは、これが最後かも」みたいな冗談を言っていた。「もし地雷で足をなくしたら、私は地雷を踏んだ作家として一生講演でメシが食えるね」などという不謹慎なことばかり言っていた。
そんなことを自分で吹聴しているうちに、行く前になったらなんだか自分が地雷を踏むような気がしてしょうがなくなってきた。愚かである。言葉にしたことは現実化する。そのことを少し実感している私は自分の言葉に縛られ始めた。
「もしかして、本当に地雷を踏むのじゃないかな」
地雷原に連れて行ってもらったとき、そういう思いが頭のなかを去来して、けっこうドキドキしていた。
ところが、だんだんと地雷原の雰囲気に慣れてしまうと、その緊張も解ける。だって、近所では子供たちが遊んでいるし、内戦は終わっているからものものしい雰囲気もないしね。
人間は環境にすぐ適応する。だから、私の緊張も10分ほどで解けてしまった。そしてたぶん、住んでいる人はもっと緊張感ないのだろう。たぶん地雷を掘っている人も。
掘る人は地雷を見つけるために掘っている。だからもっとも地雷と遭遇しやすい。きっと緊張感を継続させるために厳しいチェック項目があり、マニュアルがあるのだ。「マニュアル」がなければ、人間はすぐに危険に適応してしまう。だって、放射性物質だってバケツで運べるくらい、人間は環境に適応しちゃうんだ。
やっぱり、私が「だらだらした格好」で来たら、彼らが必死でキープしている緊張感が萎えるよな、って思った。
暑い、とにかく暑い。この暑い最中に座り姿勢で金属探知器を振る。この探知器がけっこう重い。5センチずつ動かす。ぴっぴっぴ。地味な作業だ。猛烈に地味な作業だ。ぴっぴっぴ。
「あたしはダメだ。緻密さがないから、すぐにマニュアルを省いて、地雷踏んで死んでると思う」
そう呟きつつ、これは他人事だから言えるのだな、と思う。
この国には産業がない。他の仕事に就きたいと思っても、仕事もない。ヘイローの仕事は地元の人に非常に安定した収入を約束している。しかも、国土から地雷を撤去するというやりがいもある。英語も学べる。いい仕事なのだ。
へらへら文章なんか書いてお金をもらっているとすぐ「こんな大変なこと私にはできない」みたいな発想になっちゃうんだよな。ダメだな、アタシ。
でも、正直に言う。辛い、汚い、安い仕事を、自分とは関係ないと思っている私がいる。
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三角マークは地雷発見のマーク。指さしている先に地雷がちらりと見える。これはもちろん、触れば爆発する代物。 |
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