2001年6月
カンボジアからのHOTな現地報告!!


↑田口ランディさん。「ツールスレイン博物館」プノンペンにて。ポルポト時代の拷問などで亡くなった方の写真を見ながら。
「田口ランディのカンボジア写真ルポ」


ラオスレポート
Laos report

吉村からの報告(6/11) 鬼丸レポート8/13更新 吉田からの報告(6/29)
吉村からの報告(6/8) 吉田からの報告(6/26)
吉田からの報告(6/11)

腕にTBSの「ZERO LAND MINE」の腕章をつけたTHE HALO TRUST スタッフ“クン・ソティ”さんと、ランディさん。

ランディさんの左手の地雷は中国製の72型、右手には迫撃砲の薬莢を持っている。

CD「ZERO LANDMINE」の収益が確実に地雷撤去に活かされていました。

 
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6月29日
プノンペン市内にある一番大きなお寺ウナロム寺の敷地内に日本人で孤児院をしている渋井さんと言う方がいらっしゃいます。
ここでは、自転車や車椅子などを改造し地雷被害者のために三輪車づくりをしておられます。
今年、神戸元気村も協力して日本から届けられた50台のうち35台が改造され被害で足を失った方に送られていました。神戸元気村からの支援は本当に喜んでおられました。
今日、早朝7時ウナロム寺に行った際、玄関先で地雷により両足を失った男性が座り込んでいたので声をかけたところ「昨夜、シンナーを吸った人に頭部を殴られお金を取られた」と血のついた頭部と帽子を私たちに見せ「今日の午後3時に三輪車をもらいに来る約束だったが、3時にもらって家に帰ると夜になってしまうので早くほしい」と、おびえながら私たちに訴えていました。(このような事件はプノンペンではよくあるらしい!)事情を聞いたウナロム寺の小笠原さんが改造し出来上がった三輪車を彼に渡したところ、彼の表情が一変し明るくなり笑みがこぼれました。
彼にとって、この三輪車はセカンド・ライフへのチャンスの道具でありこの三輪車1つで彼らの見るものや感じるのもが、変わるということに彼の表情から伺うことが出来、昨日の恐怖も一瞬にして取り除かれたようでした。
これからウナロム寺では、プノンペンより18k南下した村に土地を購入して畑を作り野菜育てて、地雷被害者の人たちに自立するための資金作りとして販売ができるようにしていきたいとおっしゃっていました。
失業率の高いこの国で、地雷被害にあわれた人の雇用体制はまったく整っておらず、保証も何もありません。
彼らに残された道は物乞いに近い暮らしだけです。
彼らが普通の暮らしが出来るよう、自立した道への確立に努めているウナロム寺の方々の活動に感謝し、健康で平和な国に暮らす私たちが彼らの力になれるようこの現状を知らせ、出来るだけの支援を、神戸元気村の活動もふまえ、多くの方々に訴えていきたいと思いました。

吉田 沙由里 


 
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カンボジア20日目。
カンボジアの習慣や暮らしになれ取材の方も何とか順調に進んでいます。
この国は、本当に年長者が少なく子どもの多い国です。
私はこの国の学校教育についてとても関心を持ち調べたところ
かなりショッキングな現状を知ることになりました。
学校建設は、ここ数年で各NGOやODAの予算で多く建てられています。
しかし、プノンペンなどには使われていない学校が多くあります。
公務員の給料が月約$20というあまりに低いため教師が少なく質の良い教育がなされていません。
大抵の学校では子どもの進学にワイロを要求したり学校内で教師が生徒相手に物品の売買をしたりという事が日常に行われています。
このままでは将来カンボジアというこの国がどうなるのかとても不安になってしまいます。
私が今回取材であったカンボジア人に大変すばらしい人がいました。
彼は、1980年難民として日本にわたり夜間バイトを繰り返しながら大学院まで卒業しました。
今は日本の謀ゼネコンにカンボジアで現地採用され働きながら貧困で苦しむ子どものため孤児院を行っています。
「過去を忘れた人間は成長できない」と語り、教育の必要性や自分の過去の貧困の苦しみを忘れず日本でお世話になった人達への恩返しを母国で返したいという思いで始め将来カンボジアの子供たちにこの国のよき指導者になって欲しいと願っておられました。
私は、本当にこの国をかえられるのはカンボジア人自身であると思います。
このようなすばらしい人がこれからも多く国内改善に動いて欲しく思います。
取材の間3日ほど時間ができたので、カンボジア最南に近いコンポンソム(シアヌークビル)というリゾート地に休暇気分で行って来ました。
そこはカンボジアにある赤土に染まった川とはまったく異なり、海は透明で白い砂浜が何キロにも続き、緑豊かな最高に美しい所でした。
ここには、貧困さがあまり感じられず、地雷の被害者もほとんど見当たりません。
これまでプノンペン、シェムリアップ、バッタンバンに行きましたが、最も穏やかで静かな街だと思います。
久々にリラックスできいい休暇を迎えることができました。
残り本当に少なくなりましたがもう少しいろんなものを探求して帰ります。
バウさんも元気です。帰ったらたくさん報告できると思います。

吉田 沙由里 

 
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今回カンボジアに来て本当にいい経験ができました。
毎日新しい発見や体験が出来ています。
カンボジアで素朴に生きる人々の暮らしの中には、決して豊かでなくても耐えず笑顔があふれています。わたしたちと初めてあった瞬間から、警戒する事もなく受け入れてくれる純粋なこころにわたしたち日本人が生活の中で忘れかけていた豊かなこころを思い出させてくれます。そんな人々が住むこの国にある問題を目の前に見た時、私に何が出来るのか始めはとても戸惑いました。

今回HALOトラストのサポートでいった地雷原に立った時、私の想像を越えた、緊迫感と恐怖感を感じました。どこに埋められたかまったく分からない地雷は、人の住む民家の周りから、毎日のようにHALOトラストによって撤去されています。今回私達が訪れた時にも、2度地雷が見つかり、地雷除去のための爆破作業に立ち会う事ができました。

初めて経験する爆破の衝撃は、身体全体に響き渡り地雷の恐怖と酷さに言葉を失いました。人が人を傷つけるという愚かさや命の尊さを今回カンボジアで本当に知ることができました。

私は、映像撮影をしていますが、どこまでこのリアルさを伝えられるか、自分が実際に体験をして感じるものと、ただ映像を見るのとでは断然の差があります。しかし、自分の経験も通し多くの人に伝えられるよういいビデオを撮って帰りたく思います。

今日、ランディさん達は帰国されます。バウさんと私はバッタンバンにある義足センターやシェムリアップ、プノンペンを残り10日程かけて回ってこようと思ってます。

吉田 沙由里 

 
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100メートル離れていても、爆破の衝撃を感じた。TNT火薬を使用した為でもあるだろうが、「きっと内戦時代はこんな爆発が近くを襲っていたんだろう。さぞ、恐かっただろうな」と思った。地図くは、何年にここで死んだり、怪我をしたのか、明記してある。しかし、これは、ほんの一部である。入れる土地と入ってはいけない土地を「優先順位」を決めて動かざるを得ない。

ベトナム軍がポルポト軍をプノンペンから押し出し、タイの国境沿いに追いやった後で戻って来れないようにと、埋設された数百キロに及ぶ地雷ベルト。通称「K5マインベルト」がこの近くに沢山残されている。

爆破の際に、100メートル離れなくてはいけないのは、その爆破した地雷の近くに別の地雷が埋まっている場合、誘発する可能性がある。その中には、最初の爆破で空中に飛び上がり、1メートル近くで、ワイヤーが抜け、信管が起爆し360度四方に飛び散るタイプの地雷があるという。模型を見せてもらったが、かなり強力な殺傷能力を持っており、爆破した破片は100メートル近くも飛び散るものだ。つい最近もその地雷が発見され、飛び散ったとアンロンベンのヘイロートラスト、フィールドオフィサーは熱く語る。

近くの民家には、森の中にワイヤーを張ってしかけられたブービートラップにかかって両目を失明した12歳の子どもが住んでいる。その後、その子の父は、ヘイローによって雇われ、地雷処理活動に従事している。光を失った子どもの将来を考えるとき、皮肉にも父親はその地雷を除去することで生計をたててゆくという現実がある。「私のこどものような第2の被害者を作らないように」と彼は毎日、大地に向かって無言で挑戦し続けている。

翌日、再びこの地雷原からは直径4センチほどのベトナム製地雷が発見された。(つづく)

吉村誠司

 
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バウさん、田口ランディーさんの一行は無事に昨晩、大雨の中、地雷原から戻ってきた。
シェムレアップから北に140キロほど行ったアンロンベン村付近に展開しているヘイロートラストの活動を訪問。最初の訪問した集落の近くでは、ポルポト時代のクメール軍が作成した地雷が2つ並んで発見された所だった。直径4センチ程の缶型地雷で半分側面を地表に現したままで、草陰で発見された。地面と保護色なので、よく見ないと判らないもので、ぞっとした。

地雷の爆破はフィールドオフィサーの仕事だ。顆粒の袋入りTNT火薬を二つそれぞれに仕掛け、爆破ケーブルを延ばして100メートル以上離れ、スイッチを回す。
まず、閃光が見え、遅れて「ドドーン」と地響きをたてながら、爆破された。

100メートル離れていても、かなりの衝撃を感じる。
一行は言葉を失っていた・・・つづく

吉村誠司