6月5日
前日深夜、関西国際空港を出発していた私たちは、夕方にはシェムリアップに入っていた。空港にはいつもお世話になるひふみ日本語学校の生徒さん、コイさんとナム君が迎えに来てくれていた。前回と変わらない笑顔で迎えてくれる。
遅れてベトナム経由でやってきたバウさん(山田和尚)や田口ランディさんと合流する。みんなカンボジアの自然と、人々の優しさと笑顔に惚れ込んだようだ。
6月6日
朝、HALO TRUST事務所を訪れる。
HALO TRUSTはイギリスに本部がある世界的な地雷撤去団体だ。カンボジア以外にも、アンゴラ、アフガニスタンなどで撤去活動を展開している。
神戸元気村では、2000年からHALOに新しい撤去チーム(現地人33名で構成される)を立ち上げる、「地雷撤去プロジェクト」を始めている。そのプロジェクトの一環として、今回、HALOの地雷撤去現場を直に見せてもらえることになった。
まずは地雷問題の現状のレクチャー。ワイヤーにひっかると1メートル飛び上がって、散弾を撒き散らしながら爆発する地雷。誰でも作れてしまう木製の地雷...。
一緒に同行くださっている田口ランディさんたちから驚きの声があがる。
巧妙に仕掛けられ、誰かが取り除くか、誰かが踏むまで、地中に潜み続ける地雷。
それがどのように取り除かれているのか。私たちは自身の目で確かめるべく、カンボジア北西部アンロンベンへと急いだ。
アンロンベンのHALOオフィスに入ると、撤去要員(ディマイナー)全員が肩に水色の腕章をはめている。そこには見慣れた「地雷ZERO」の文字が・・・。すでにCD等の収益が現地で使われていたのだ。多くの人の感動の結晶がこうして訪れた先で使われているのを、目の当たりにすると感動してしまう。
その日のうちに地雷原へ向かう。ちょうどその地雷原では地雷が発見されたとの報告が今朝入っていた。私が地雷原を歩くのはこれで二度目だが、やはり緊張する。バイザーとプロテクターを着け、フィールドオフィサーの案内で地雷原を歩いていく。
黙々と撤去作業を進めているディマイナーの横を通り抜けていく。
この日、発見された地雷は手製の地雷2つ。アンロンベン州には以前、ポルポト派の地雷工場があり、手製の地雷を生産していたそうだ。地雷の恐ろしさのひとつは、ある程度の知識さえあれば誰にでも作ることができるという「身近さ」だ。
発見された地雷は、その場で爆破処理される。100メートル近く離れたところから爆破の瞬間を待つ私たち一行。ディマイナーが周囲に注意を呼びかけるために叫ぶ。
複数のディマイナーの声が地雷原にこだまする。そして、「ズッ、パアーンンンンン」という音と共に赤い光が見え、ものすごい土煙がのぼった。地雷が爆破処理された瞬間だ。
その衝撃は私の想像をはるかにこえていた。「2個あるけれども、手製の地雷だか
らたいしたことない。」と、勝手に決め込んでいたが、その破壊力はものすごい。地雷が発見された場所に戻るとそこだけ穴がボッカリと空いてしまっている。少し離れたところにセットしておいたヴィデオカメラにも土がかかっていた。
爆破後の姿を見て、私の頭の中に浮かんできたのは、地雷を踏んだ子どもの姿だった。これだけの破壊力を持った地雷を踏んだ子たちの痛みと、悲しみが伝わってきたのだ。
「ひとりでさみしかっただろうなあ。」
こころの中で手を合わせ、地雷原をあとにした。
6月7日(1)
HALOのゲストルームで宿泊した私たちは、昨日とは別の地雷原へ向かった。
この地雷原は学校の近く、というよりすぐ裏にある。そう、すぐ真裏に地雷があるのだ。
ちょうど学校が終わった時間に訪ねたのだが、子どもたちがボールで遊んでいる横を、ディマイナーが黙々と撤去作業していた。これが現実。前の世代が残した「地雷」が、新しい未来を造っていく子どもたちを襲う。「嫌だアー!」「おかしいっ!」直感的にそう思う。
この地雷原から帰る時に、地雷で足をなくした方がいたので、話をうかがう、この人は学校のマネージャーで、足は内戦中に地雷を踏んでしまってなくしたそうだ。
内戦中はポルポト派の兵士だったという彼。その彼に次から次へと質問していく田口さん。「あれだけのたくさんの人がなくなったのに、カンボジアの人はポルポトやポルポト派にどう思っているのか。」田口さんの質問はすごく根本的だ。やっぱり女性で母親なんだと思う。「生命」を産み出す女性の、生まれ持っている感覚なのだろうか、質問ひとつひとつが僕のこころに響いていく。
彼に対しての最後の質問。「どんなカンボジアにしたいですか。」
「自分たちの力でよい国を造っていきたい・・・。」
外国の代理戦争、様々な介入を受けてきたカンボジア人のこころからの声しれない、と思う。僕ら国外のNGOが大きな力になっているのも事実。
カンボジアにとって、本当の「発展」って何だろう。
6月7日(2)
様々な思いを引きずりながら、タイとの国境へ移動する。
国境地帯は最後までポルポト派が残っていた地域。そしてポルポトが息を引き取った場所でもある。
ポルポト・・・この人物は僕の中でかなり重要な位置を占める。普通の留学生だった彼が、共産主義思想に出逢い、それも原始共産制へのあこがれを強めていく。絶対的な「平等」を求める理想。それはある種の憎悪に変化していく。都市住民、技術者、教師など・・・たくさんの市民が殺された。また、多くの人々が強制労働に駆り出され、栄養失調で亡くなっていった。
ここまで書いていて、これ以上、彼について書けなくなった。
彼のことを今だ僕の中では理解できないのだ。帰国してからポルポトの伝記、カンボジアの現代史も読んだ。けれども読めば読むほど、知れば知るほど分からなくなる。
時間を更に置くことで、自分の中で彼についての結論がでるのかもしれない。今はそう思っている。
・・・話をカンボジアに戻そう。国境地帯で警備する警官に連れられて、ポルポトの墓を目指す。その場所についてみると、なんだか気が抜けてしまった。あのポルポトの墓がこんなものなのか。彼が焼かれたというタイヤの焼け残りも、土盛りの上に残っていた。墓からちょっと奥には、ポルポトの使った便器、薬の瓶が無造作に捨てられていた。空しさがこころに残る。
ポルポトの墓からアンロンベンへ帰る途中、国境地帯の密林を一望できる場所で休憩をした。
人間の世界で何が起こったとしても、自然は何も変らず存在し続ける。常に人の歴史を自然は見続けている。もし、大自然が物を言うことができたら、何と語りかけてくるのだろうか。そんなことを考えていた。
今、ずっと思うこと。
「僕らは歴史から何を学び、そして子どもたちに何を残そうとしているのか。」
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