6月3日僕は関西空港にいた。 名前 文(ふみ) BUNJIとかいろいろ 空港に着き、10時フライトのバンコク行きに乗る。飛行機に乗るのは始めてではないが、この世で唯一の苦手な乗り物だ。バンコクに着き今度はカンボジア行きの飛行機に乗る。今度の飛行機はすごい!プロペラ機だ。しかも、僕が乗ったのは丁度エンジンの隣のシートでプロペラがぐるんぐるんまわっている隣だ。これ飛んできたらもろ俺にあたるじゃん。とかなんとか思っていたら無事一時間ほどで着いた。だいたい6時くらい、あーよかった。 今回はカンボジアのシェムリープと言う所で鬼一二三(おに ひふみ)さんという日本人女性がやっている自宅兼、日本語学校に泊らせてもらう事になっている。鬼さんは空港まで迎えに来てくれていた。すごく元気な女性で若いんだか年なのか一見してわからない人だ。 車にお土産(車いすや文房具)とズックエイドの靴などを積み込む今回この靴は鬼さんの日本語学校と同じ敷地のなかにあるこれも又、日本人女性がやっている孤児院にプレゼントするものだ。車に乗り込み空港をあとにした。 車内で自己紹介を済ませ鬼さんに道々いろいろなことを聞いた。カンボジアもここ2、3年随分観光客がくるようになって色々なホテルが建ちはじめているそうだ。とはいっても空は真っ青で道沿いにはヤシの木が立ち並び、赤土の未舗装の道にその影を落としている。 そうこうしている間に、鬼さんの日本語学校に着いた。思っていたよりも立派な建物でしかも広い。3階建の建物で1階はお手伝いさんの部屋と台所など、2階が図書館と教室、清潔で明るい部屋だった。そして3階が鬼さんの自宅でそこに泊めてもらう事になっている。2つ部屋があってそこに男女で別れて泊まる事になった。今回は3人できている。吉村君という、台湾元気村やいろいろなことをバリバリやっているひと。(ぼくは叔父さんと呼んでいるおじんだからではなくおじ甥という感じだ)
神戸元気村副代表。来年の1月にパパになる予定。もう一人はおケイと呼んでいる女性で彼女は日本語教師になりたいらしく今回は地雷のこととは別にもうひとつ そう、今回の目的は地雷の事なのだ。 そもそも今、世界には人道的撤去というひとの手で地雷を撤去するやり方だと、すべて撤去するのに15世紀もかかるほどの地雷が埋まっているのだ。 とりあえず目的はそんな感じ。 しかしカンボジアには僕が昔から興味があるアンコールワットなどもある。明日はとりあえずアンコールワットだ。 こっちは雨季だと聞いていたんだけど、昨日の夜に降っていた雨はやみ、カラリといい天気になっていた。 今日はあこがれのアンコールワットに行ける。 いよいよ出発。今日は鬼さんの生徒の一人で英語のガイドではシェムリープ1の(もちろん日本語もうまい)ソクピエップさんと一緒だ。 ぼくが海外が始めてなのは先にも書いたとうりだ。なぜ今まで行く気にならなかったのか? 理由その2 くどいのでもう止めるけど、とにかく用事もないのに行く気にならなかった。 だいぶ話が横道にそれてしまった。 手が無い、もしかしてこれは地雷のせいか?そのとき、別行動をしていた吉村君が戻ってきて カンボジアでは彼のような人は働く所はなかなか無く以前は政府から補償金が出ていたが、今は出なくなってしまったらしい。 働きたくとも働けず家族を養っていかねばならない。ここに来て初めて地雷の実状を見、愕然とする。その日、3人位地雷の被害にあった人たちにあった。 カンボジアには今、いろいろな国の様々なNGOが入って地雷の被害にあった人のサポートをしている。そのなかには地雷で体の一部を失くした人の働く場所をつくっているところもある。しかしそれでも足りないのだ。問題の大きさを再確認する。なんとかならないものか? 他の遺跡は白っぽい砂岩でできているのだがここは赤っぽい砂岩だ、そして壁一面に施してあるレリーフが他の遺跡よりも深く、ハッキリと残っている。昔のカンボジアの人は凄い技術と権力を持っていたのだなと感心する。今日は、やはり鬼さんの生徒のポット君と言う人が、遺跡を案内してくれている。彼も一生懸命ガイドをしてくれた。彼の説明では、昔タイとカンボジアは戦争をしており、その戦いで連れてきた捕虜を労働力にして、今のアンコール遺跡群は作られたのだと言う。捕虜達が石を積み、カンボジアの職人達が彫刻をしたのだそうだ。これは後で鬼さんから聞いたのだけどカンボジアの人と、タイの人は、今でもあまり仲が良くないのだそうだ。 どうして人はそういう昔からの確執みたいな物を意識しないのだろうか? なんだかなぁ 午後からはアキラさんの地雷博物館にまず行った。 チャーターしていた車に乗り込みカンボジアの赤い土の上を走る。道は鋪装されていないので凄いガタガタ道だ。道路のあちこちに穴と言うか、池と言うか、とにかくひどいのだと20センチくらいの深さで穴があいているそんな穴をよけながら車は進んで行く。いつかこの道にもアスファルトが敷かれるのかなぁ、このままでもいいんじゃないかなぁ。 いろんなことを考えている間にも車は進み、いつのまにかたんぼの間を抜け田舎道を走っていた。もともとカンボジアは米が良くとれるのだそうだ。だいたいふつうの人の食事はおかずが一品で、汁だとか炒め物があって、それでごはんを何ばいも食べるのだそうだ。昔は米もいっぱいとれて他の国に輸出していたくらいだったそうだ。しかし、今はもうあまり米がとれなくなってしまったそうだ。 その原因の一つに地雷がある。 内戦時代にうめられた地雷はその位置も数も定かではなく、 無差別にうめられていて、畑やたんぼだったところも、今は近付けなくなってしまっている。それでも自分の土地を持っていない貧しい人や、先祖だいだいの土地だということで、その土地に入って地雷を踏む人は後を絶たないらしい。 その人たちはそこが地雷原だと分かっていても入って行かざる得なかったのだ。一刻も早く地雷を無くすべきだと切実に思った。 うーん今日の日記は長くなりそうだ アキラさんの地雷博物館についた。農村の一角にある感じで、裏には川が流れていてちっちゃい人たち(子供達)が水浴びをしていた。小さな草葺きの門があり、入り口は地雷原のマークが付いているゲートだ。そのとなりに手書きの看板で「アキラの地雷博物館」と日本語と英語とクメール語でかいてあった。 中に入るといきなりハンモックで寝ている人がいる一体なんなんだ?中を見回すと小さな建物(小屋?)が4ッつくらいあってみんな草葺きの屋根だ。壁はトタンの板で出来ている。 売店のようになっているところと本館?になっているところを見に行った。 すごい!地雷の山だ。 棚の上には様々な地雷が並べられている。アメリカ製のクレイモア地雷、中国製の対人地雷、ソ連製の対戦車地雷、よくわからない兵器の数々。 棚にはその地雷の名前とどこ製だとかが書いてあった。 部屋の片隅には名前も書いてない小さな対人地雷の凄い山。いったいいくつあるのだろう。 蟻塚のようになっている。 これ全部アキラさんがとったのか? 一体どんな人なんだ?ビックリしてしまった。 吉村君がおばあさんと話していたのでそっちの方へ行った。そのおばあさんはアキラさんのお母さんだそうだ。なにやらアキラさんは不在で今日は帰ってこないのだそうだ。仕方ないので明日の3時くらいならいるということなのでもう一度、明日、足を運ぶことになった。 今度は庭を見回してみると地雷原が再現してあった。赤地に白抜きでスケルトンがプリントしてあるプレートが小道を作っている道の左右には地雷(もちろん火薬は抜いてある)が埋めてありここにも、あっちにも、とウォリーを探せ状態だった。 地雷博物館を後にして、車は一路、ヘイロートラストへ。(詳しくはレポートの方を) 事務所は2階立てのこじんまりした建物でそのまえにトラックやジープなどが並んでいた。中に入り、吉村君が挨拶をしている。事務所の中には数人のカンボジア人のスタッフがいて無線の交信やなにかをしていた。みんな良い顔をしている。 彼等はいつも死と隣り合わせなのだ。 しかし、沈んだ顔をするわけでもなく、その目は凄い輝き方をしている。それをみただけでも彼等のことが分かった気がした。 吉村君が彼等の一人と英語で訪問の理由を話している。なんだか英語なので良く分からなかったけど、彼等のボスを呼んできてくれるようだ。 そう、僕は英語が全くに等しい程できない。こんなことだったらもう少し勉強しときゃあよかった。 待っている間に部屋の中の写真を撮らせてもらうもらうことになった。 がっしりした元軍人の人でこちらがもう一度どんな理由で訪問したのかを説明すると、少し時間を取ってくれると言った。 壁に2枚、縮尺の違うカンボジアの写真が貼ってあり、これまでヘイローが地雷をとってきたところをマークしてあった。黄色のマークは撤去が終わったところ、赤はこれからのところだと説明してくれた。 吉村君が、「どのくらいカンボジアにいるのか?」と聞くと。「もうだいぶんながい」と答えていた。「凄く毎日過酷な作業をしていて、自分は元軍人で訓練されているから大丈夫だけど普通は難しいだろう。」とはなしていた。実際、毎日触れただけで爆発し、もしかしたら死ぬかも知れない物を探し、それをどけて行くのはどんな気持ちなのだろう。それでも誰かがやらないと地雷は減らないのだ。 「彼等の作業しているところに同行させてほしい。」というと、「ノー。」との答え。彼が言うには、いまカンボジアは雨季で道がどろどろになり現場に行くだけでも大変らしい。しかも、その泥の中には、地雷が入っているかも知れないと言うのだ。 現場に行くのは諦めたけれど、「これからも協力させてほしい。」と言うと、彼等の活動内容が入っているビデオを貸してくれ、「カンボジアにはダビング屋があるのでそこでダビングすると良い2、3日で返してくれ」と、とても好意的だった。 もっといろいろなことを話していたのだけど 中にいる間、ずっと英語だったので会話に入っていけなかった。 やっぱり英語って必要なのね。 あしたはもう一度アキラさんのところに行く予定だ。 そういえば、おケイは今日でなんかタイに行くんだったよな。 鬼さんの家の3階にはすごく広いテラスがあって、食事はそこでいただいていた。柱と柱の間にはハンモックがつってある。まだ寝ぼけていた僕は、そのハンモックに寝そべって外を眺めていた。家の裏はたんぼになっている、まだ田植えはしていないようだ。 きれいな景色だなぁ、いつまでみててもあきないな。そんなことを考えていたらあっというまに午前中は過ぎていた。 12時ごろ、吉村君が帰ってきた。 今日の元々の予定ではアキラさんのとこに行き本人から直に話を聞かせてもらい明日からはプノンペン(現在のカンボジアの首都)に行き、日本大使館の方とあったり、カンボジア政府がやっている地雷撤去の団体、シーマックの活動や、マグというNGOの活動などを視察に行き、できれば実際に地雷を撤去している現場にも行きたかったのだが、その動きと同時にインドネシアの情報も、神戸のほうから逐一いれてもらい、場合によっては現地に飛ぶということも頭に入れて動くことになった。 とりあえず、3時にアキラさんとの約束があったので地雷博物館に向かう。 今度は日本語だ。しかもすごく奇麗な日本語だ。 彼は一本の園芸用の小さなスコップの柄を長くしたような道具をみせてくれこれで取っているといった。僕らがヘイローにいってきたことを話すと、彼は自分のやり方はヘイローと少し違うと言った。 彼は金属探知機などの道具は使わず自分の経験と勘だけでやっているという。ヘイローは地雷を発見したらそこから動かさず隣に爆薬を仕掛け全員そこから退去し爆破しているが、その方法だと時間がかかり爆破した地雷の破片に金属探知機が反応してしまい、それを取り除くのにまた時間がかかってしまうという。 「アキラさんは発見した地雷をどうしているのですか。」と聞くと、「そこにあるよ。」と、庭の一角を指差した。 そこを見てみるとなんだかスーパーの安売りの棚みたいなのにどっさり地雷が置いてある。しかもその隣には、万力の小さいのとレンチが転がっている。このひと持って帰ってきてから解体してるの?しかも庭先で? びっくりした、というより危ない。吉村君が「今までミスをしたり危ない目に会ったりしたことはありますか?」と聞くと、彼はにっこり笑って「一度もない。」と言っていた。 そりゃそうだそんなのあったら死んじゃってるよ。まだいろいろ聞きたかったのだけど、今度もう一度カンボジアに来たときに聞かせてもらうことになり、彼に別れを告げて今度はヘイロートラストに向かった。 つぎに会うときまで事故がないことを祈る。 車の中で吉村君といろんなことを話した。いろいろ情報を整理したところヘイロートラストを支援するという形が、一番いいのではないかということになった。 ヘイローにつき、昨日のデイビットさんにそのことを話すと、3000万円あると、新しいチームを作ることができ一年間、そのチームが活動できるのだという。 彼らのやり方は本などに詳しく載っているのだが、それぞれの国の人が自分たちで地雷を取り、その国を復興させていくという形を取っている。 元気村もこれまでの活動の中で被災した現地の人たちが、自分たちで行動を起こせるようにと、心がけてきたので、これからヘイロートラストを支援していく形を取っていきたいということでイギリスのヘイロー本部と連絡を取っていきたいということになった。 現場にいる彼らの動きなどを聞かせてもらっていると彼らの情熱や、その心などがまじまじと感じられた。 鬼さんの家に帰って神戸のほうと連絡し、インドネシアの地震について相談したところ、やはり被害が、かなりひどいとのことで、実際、現地に入るのに安全が確認できないのでさらに詳しい情報収集のためと、もし緊急で現地に入る場合、シェムリープからでは交通の便が悪すぎるので、ジャカルタで待機することになった。 今度はインドネシアだ。 インドネシアのことは出来上がり次第、また別のページに掲載する予定です。 皆々様のおかげで、無事、帰ってくることができました。 なんでむこうでは暑いの平気だったのに日本ではだめなのかな? 暑くて死にそう。 |