カンボジア大洪水レポート
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2000.12.7 update


洪水レポート
2000年12月31日

今年の米の収穫も終わり、米の価格は少し落ち着いた。今は1キロ800リエルである。だが、昨年の今ごろは1キロ500リエルであったというから、まだ、例年よりはずっと高い。今までは、去年の米が市場にあった。これからが、価格高騰の本番だと思う。

乾季の米を作っているタトーク村の稲は、順調に生育している。乾季には、2週間に1度ほど、ポンプを借りて、遠くの水源からの水を田んぼに補給しなければならない。そのポンプの使用料は1時間2000リエルだ。カンボジアはあまり、稲を育てるのに手をかけない。通常の雨季の耕作の場合、田んぼに行くのは大体10日から14日に一度で、草を取ったり、肥料(人間や家畜のフン)をまいたりする。乾季の稲は、これよりは少し手間が多いようだ。

学生の実家は、洪水で米がぜんぜん取れなかったため、近くの畑でスパイ(市場価格のレポート参照)となすを栽培しはじめた。畑といっても、家庭菜園のような、2畳くらいの広さの規模だ。この野菜の収穫は間近で、全部市場で売れば、スパイとなすを合わせて60000リエル(1600円ぐらい)になるだろう。もちろん、自宅で食べる分も必要なので、全部を売ることはないだろうが、家族全員収穫の日を待ち望んでいる。

洪水レポート 続報終わり

洪水レポート
2000年12月7日

 70年ぶりだという大洪水が終わり、約1ヶ月が過ぎた。今年の雨期は例年をはるかに越えて雨量が多く、9月24日ごろと10月中旬の2度、洪水のピークがあった。
 前回は1度目のピークの後、10/7(土)にシェムリアップ市の隣のポーク郡で一番被害の大きかった村(学生の実家)へ視察に行き、その時点での現状を報告した。その中で、「日本からの支援をすることができるならば、次回の苗の買い付け時である、来年4月に現金で次回の収穫期直前で米不足の深刻化が予測される10月下旬に現物(米)での2度の支援ができれば最も良いのではないか」と述べた。

 今回は、洪水レポートの第2弾として市場価格(主に野菜)の変化と、収穫期を迎えた最終的な収穫量(推定)、視察した村のその後について報告する。

食料品の市場価格の変化

 市場価格の変化は、まず野菜の高騰から始まった。ひどい時には、洪水前の4倍にまで値上がりした野菜もあった。日本のような長距離輸送が発達していないこの国では、周辺地域の状況が全ての野菜の価格に影響してくる。「ナスの産地が被害にあったから、ナスだけ高くなった」「ナスは高いから、ナス以外の野菜で料理を作ろう」というわけにはいかない。洪水は野菜への被害も大きくもたらした為、野菜の価格は一時的にではあるが、暴騰した。しかし、徐々に洪水後に植えた野菜が収穫されはじめたため、市場価格は落ち着いてきつつある。
 下記の表は主要野菜の価格の変化である。

野菜の市場価格の変動表
(特に記載のない場合、キロ単価(通貨=リエル/約3800リエル=1US$)

野菜名

洪水前

洪水後

11/23現在

レタス

2,000

8,000

4,000

ねぎ

1,000

4,000

1,500

プロロ
※1

100

400

100

カリフラワー

3,000

10,000

6,000

ピーマン

5,000

12,000

8,000

香草 1束

100

400

200

トロクーン
※2

350

1,000

500

ナス

中1本 300

小1本 500

小1本 400

スパイチョンカー
※3

2,000

3,500

1,000

きゅうり

1,000

2,000

1,300

トマト

2,500

4,000

3,000

唐がらし

3,000

10,000

4,000

※1 プロロ 1つ2〜3cmの黄色い花を食べる野菜。くせがなく、成長がとても早く、安いので、日本のモヤシと同じような感覚で料理に大量によく使う。サラダにしたり、少量の肉や魚と炒めたり、スープの具に入れたり。カンボジアの人がよく使う野菜の一つ。
※2 トロクーン カンボジアの人がよく使う葉野菜。日本のほうれん草と同じような感覚でスープの具のメインになったり、卵といっしょに炒めたりする。
※3 スパイチョンカー 小松菜に似た葉野菜。カンボジアの人がよく使う。

 カンボジアの人が好んでよく使うのは上記※1〜3の他に、トマト、香草類、唐がらしなど。
 この野菜の暴騰は、1回目の洪水のピーク前後(9月下旬)から、最近まで約2ヶ月間続いた。公務員の月収が約$20(1$=3,900リエル)建設現場での一般労働者の日当が3,500リエル、専門職である木工職人(大工)の月収が$50であることなどを考えると、野菜の暴沸が一般家庭の家計に与えた痛手の大きさがわかっていただけると思う。

収穫期を迎えて

 11月も下旬に入り、収穫を始める田んぼが見られるようになった。稲刈り、脱穀など全て手作業なので、収穫が終わるまでには半月〜1ヶ月かかる(ちなみに、田植えも同じく半月から1ヶ月かかるので、稲の育ち方も比較的バラつきがあるのである)。鎌で稲を刈り、ござ(むしろ?)やビニールシートの上に稲を広げて、女性や子供が足で踏みしごいて脱穀する。脱穀後のわらは、男性たちがきつく縛り、来年まで牛の飼料として使う。今年の収穫量は例年の20〜25%だという。今から本格的に米の価格が高くなっていくのだろう。10月上旬に700リエル/kgだった米は既に1000リエル/kgに上がっている。今後も米の価格は随時報告する。

タトーク村のその後

 洪水で村の田んぼが全滅したタトーク村では、村人たちは乾季にもう1度米を作ることにした。雨季と乾季で水量の差が激しいカンボジアでは、雨季に米を作る田んぼが大半だが、一部の田んぼは雨季には水量が多すぎて米が作れないので、乾季にだけ米を作る。1つの農家や村が両方持っているのではなく、地域によってちがうのである。雨季用の田んぼであるタトーク村の水田で乾季に米を栽培しても余り取れないのは皆わかっているのだが、収穫が全くないのだから仕方がない。学生の実家では苗の買い付けのために10万リエル(約26$)を借りたという。1年後に11万リエルを返すことになっているというから、年利は10%だ。他の家庭でも3〜7万リエルを借りて苗の買い付けをするという。苗はかなり遠いところまで買い付けに行く。また、田植えには多くの人手を借りねばならず、1日20人くらいに手伝ってもらって半月程かかる。その間支払う謝礼は1人1日4000リエルで、計300ドル以上になる。もちろん、学生の両親も他の家に手伝いに行って謝礼をもらうのだが、他の家へ手伝いに行くことができる働き手が2人(学生の両親)だけしかいないため、田植えを終えるだけで$200以上かかってしまう。

 小さい子供の多い学生の家族はやはり、村の中でも経済的に苦しいようだ。学生本人も1ヶ月に1度くらいしか実家に帰らない(普段は日本語学校に住み込み)し、電話も双方にないので、年利10%で借金をして米を作ることにしたという村の決定を知ったのは、村人たちがもう借金をしたあとだった。苗の買い着け時に支援をしたいと考えていたのに、もうすこし早くにわかっていれば、せめて無利子でお金を借りられる方法を探す事が出来たのかもしれない、と悔やまれる。
 今は、米の価格がこれ以上あがって、村人たちの生活を圧迫しないように、少しでも多く乾季の米が収穫できるように、と願うばかりである。

カンボジア シェムリアップ在住 中石恵子

洪水レポート
2000年10月7日
写真ではカメラの調整不備の為、日付が6日になっていますが、実際視察を行ったのは7日です。

 「遅かったかな」というのが第一印象だった。今年のカンボジアの大洪水の状況を確認するため、国道6号線を走っている時だった。今年の雨季は例年より水量が多く、洪水が心配される。とは、私が九月初旬にこちらに来た時から聞いていた。
九月中旬には大使館から邦人に向けて、「洪水に注意」の情報が流れてくるようになり、九月二十四日にHALO(ヘイロートラスト)の各現場事務所の視察を終え、同じ国道六号線をシェムリアップに向けて走っている時には、見渡すかぎり田んぼが水没していた。
周辺よりは少し高く作ってある国道の上に仮小屋を建て、牛やバイクを連れて避難してきている方々がたくさんいて、道の片側は車が通ることができないほどだった。

 その後、日本語学校の学生から聞いた話では、七十年ぶりの大洪水なのだと言う。一度きちんと状況を知っておいたほうがいいと考えていたところ、十月七日(土)に洪水の現状を見に行くことができた。

 シェムリアップの中心部を出たばかりの国道沿いには、住宅や店、学校などがぽつぽつと並んでいる。各住宅の前に小さい田んぼはあるものの、被害があまりなく順調に育っているか、水が引いた後で、水没した稲はもう刈り取られ、まるで田植え以前の田んぼのようになっているかのどちらかだった。

 やがて住宅などがまばらになり、田園地帯が広がるようになっても、田んぼの状況は変わらず、刈り取り後か順調かのどちらかで、洪水の一番ひどい状況は終わっているのではないかと思った。

 シェムリアップの中心部を出てからバイクで約四十分走ると、また住宅などが増えてきて、隣のポーク市(Poak)の中心である市場が見え、市場から国道を離れ、角を一つ曲がるごとに状況は変わっていった。
一度めは道が壊れ、全面修理中の場所があり、、バイクを降りて、人が二人すれちがえないような道幅の迂回路を約四百メートルあるいた。
もう一度角を曲がるとすぐに、バイクでは通れなくなり、道端にバイクを置いて、ひざ上まで冠水した道をはだしで歩いていった。冠水した道を二百メートルほど歩くと地面が見えてきた。


2000.10.7 Pout市 Tatouk村 (56K)
バイクを置いて歩き始める。
水の下は、当然、未舗装なので、所々びっくりするほど深い穴が(溝が)ある。はまってみないと、(私には)場所はわからない。

 訪れたのはポーク市のタトーク村(Tatouk)。
日本語学校に住み込みで働きながら住み込みで勉強している学生の実家周辺で、ポーク市で一番被害が大きい地区だ。五十世帯以上(彼女も正確な世帯数は知らない)ある村の人たちは、みんな農業を営んで生活している。
米を作り、牛、豚、鶏などを飼い、又近くには国内最大のトンレサップ湖もあるので、ときおり魚も取りながら、ほぼ自給自足の生活をしている。

 洪水のピークは、九月二十四日前後。ちょうど私が国道沿いまでが水没しているのを見た日だ。村の田んぼは全滅だと言う。ひとまず、彼女の実家へ挨拶に行き、話を聞かせていただいた。

 「村に一つしかない井戸のすぐ近くにある彼女(姉一家と兄妹が住む)の家には大人六人子ども二人が暮らしており、洪水の被害が無かった去年は四つの田んぼから約500Kgの収穫があった。
例年は家族で食べる米は、自分で作った米でまかなえるので買わない。今は庭で育てている果実(バナナ、パパイヤ)やレモングラス(ハーブの一種)を市場で売って得た現金で一日一キログラムの米を買っている。パパイヤは水に使って根がだめになったので、これからは実は取れないだろう。 
米は1Kg700リエル(約20円)。こちらの食習慣は少しのおかずでご飯をたっぷり(カレー皿二杯ぐらい)食べるのに一日1Kgでは足りない。時々お粥にして量を増やしているし、三食を二食に減らしている。水没した田んぼでは、魚が採れるので、籠を作って仕掛けて置く。」
(お邪魔した時も、新しい籠を作っている最中だった。木のつると細い棒を器用に絡めながら作っている。手がとても痛くなる作業なので、漁師でも籠を市場で買うことも多いと言う)


2000.10.7 Pouk市 Tatou村 学生の家 (49K)
ここは家の周囲から水が引いているが、お盆のピーク時には、階段の足ふきマットのすぐ下まで水が来たと言う。
柱の向こうでつくっているのは魚を採る籠。奥にみえるのが完成品。


2000.10.7 Pouk市 Tatou村 (59K)
水没した田んぼで魚をとる子ども

 話を聞かせていただいた後、家から五十メートルほど離れたところから、お父さんの手作りだと言う木の小舟に乗せてもらって、実際に水没した田んぼに連れていっていただいた。
(余談だが、小舟が今にも沈みそうで恐かった。船のわき腹に空いた穴を踵で塞ぐような格好で乗らなければ水がはいってくるし、船の縁から水面まで二十センチ有るか無いかだった。)

 船を出した場所も最近まで地面が見えていたところで、そこから、おそらく田んぼへ続く小道だったと思われる狭い水路を通り抜けた。すると、見えたのは、(決しておおげさな表現ではなく)地平線まで水没した田んぼだった。


2000.10.7 Pouk市 Tatouk村 (55K)
木船で水田へ漕ぎ出す。「田んぼへ続く小径」だったところ。
例年なら決して水没しないところだ。


2000.10.7 Pouk市 Tatouk村 (34K)
地平線まで水没している。というのは決しておおげさな表現ではない。

 国道沿いでは、被害が大きかった田んぼも、すっかり洪水の後片づけ(刈り入れ)は済んだかのようにみえたし、順調に育っている稲も全体の四割ぐらいはあったと思うのに、ピーク時から二週間が経過して、まだこの状態なのには驚いた。


2000.10.7 国道6号線沿い (64K)
順調に育っている稲。青々とした田が向こうまで続く。


「村の田んぼはもうだめです」とは、ここに来る前から聞いてはいたのだが、
「村の田んぼ」がどの程度の規模かわからなかったし、「もうだめです」といっても、この広大な田園地帯が水没したままだとは思わなかったのだ。

 少し離れたところにある、彼女の両親が住んでいた家へボートで向かった。
(現在、ご両親は彼女の姉の家へ避難してきている。)
時々櫂を刺して測ってもらったところ、水深は70、80〜120、130cm。田んぼの泥の表面につくまでの水深だ。体重で泥が沈む事を考えると、後片づけに来ることができるぐらい水が引くまでにはまだしばらくかかりそうだ。

 途中には、住民が避難してしまって、空き家になっている家が何軒かあった。その家々の付道は、道はおろか、高床式の家屋の一階部分の5〜60cmのところまで水がきていた。
大人なら、膝ぐらいの深さだが、バイクや、一階で飼っている、犬、鶏、豚等と一緒に避難したのだろう。彼女の両親が住んでいた家も、まだ一階部分は地面が見えていなかった。家の入り口で水深40〜50cm。ピーク時には水深140〜150cmもあったという。

 もともと、収穫期は十一月なので、去年収穫した米はまだ自宅にも、市場にも残っており、今すぐ食料の心配があるわけではないが、今年の収穫が全く望めないまま(つまり、食料も現金収入も入るあてのないまま)来年を迎えるのが非常に危惧される。
本当に食糧不足が深刻になるのは、来年の今ごろの時期だろう。育っている稲も例年ほどの収穫は望めないし、それにつれて、米の市場価格もうなぎ登りになるのは目に見えている。
しかも、農業に関らない人たちが多い都市部に隣接している市なので、米が品薄になってくると、現金収入の多い都市の住民が米を手に入れ、現金収入の少ない農家には極めて不利になるだろう。

 また、来年の田植えの時期に(五月下旬から六月初旬)も苗の買い付けに多額の現金支出が必要になってくる。今年の春に彼女の家で田植えのためにかかった費用は約200ドル(22,000円)。人間の食料さえ、大幅な不足が予想されるのに種もみが残るのか、また、苗の買い付け価格がどのぐらい値上がりするのか、想像もつかない。寿命のあまり長くないこの国では(しかも、内戦と言う不幸な歴史もある)、七十年前の大洪水の状況を覚えている人もおらず、村全体が不安に包まれている。

 国からの支援はあると思うか?と聞くと「無いと思います。あっても5Kg位を一回くれるだけでしょう。」と言った。庶民の生活で現金が動く事があまり無いこの国では、所得税をはじめとした税金のシステムがほとんどなく、(一部法人税はあるが)財源不足の為、国が福祉に関ることはあまりない。

 もちろん、洪水の被害にあったのはこの村だけではない。程度の差こそあれ、国内全域で洪水の被害が起きている。
今、稲が育っている田んぼからも、去年と同じだけの収穫は望めないだろう。しかし、農業を営む方々の中でも経済的に比較的余裕がある家は、田んぼに少し土を入れて高くしてあるので、被害が少ない。
大多数の農家は土を入れてないので、被害が大きい。水が引くのが比較的早かった国道沿いで、被害が大きかったのは、あまり大きくない家屋の周辺にある田方が多く、その差が明確に現れていた。
悪循環である。


2000.10.7 国道6号線 (46K)
舗装した道路が崩れ落ちている。
この渡し板を通るのにはカンボジア人800リエル(約20円)、外国人1000リエル(約25円)払わなくてはならない。もちろん違法だが。
道路わき両側に水田。右は全滅、左は順調。


2000.10.7 国道6号線
奥の囲いの中は順調に育ち、手前の道路わきは水没。
経済力のある所は、土地も少し高くし、水はけの工事もできる。主要道路に隣接しながら、騒音に悩まされないだけの距離は確保する。
この情景に経済格差が現れている。

 この大洪水のために、日本の方々に支援を募って、何か送ることができるとするならば、今すぐに支援を送るのではなく、(もちろん、支援を募るのは今から始めていただきたいが)来年五月の苗の買付時期に現金で、10月の収穫期直前で米不足がピークを迎えると思われる時期に現物(米)で、と2度にわけての支援をする事が最良と考える。

 今後も、米の市場価格の値上がりなどに気をつけ、随時報告していきたい。

カンボジア シェムリアップ 中石恵子