chuanさんのこと

インパク会場

 

神戸元気村スタッフ中石恵子からの
カンボジアレポート

 

偶然知り合った、chuanさんのお話

「わたしの いとこは じらいで あしが ありません。あいたいですか。」
chuanさんPhai(パイ)さんからそう声をかけられたのは11月19(日)のことだった。彼は、日本語の学生でも、よく行く店の店員でも、他のNGOの関係者でもない。私にとって純粋に「友人・知人」と言うことができる数少ないカンボジア人である。口数は多くないが、とても誠実な32才の男性だ。私から直接「私は地雷の問題に関る団体にいる」と言ったことはないと思うが、たぶん誰かから聞いたのだろう。その場で、じゃ、明日一緒に行きましょう、ということになった。が、実は私は日曜の夜に屋台で食べた食事が原因で日曜の深夜から月曜の朝にかけて、ひどい腹痛と下痢に悩まされていたので、実際に訪問したのは11月21日(火)の朝だった。

 彼の家があるポーク郡は、洪水の被害があった学生の実家もあり、シェムリアップからバイクで40分かかる距離の割には、私にとって身近な場所だ。高床式家屋町の中心である市場からバイクで7〜8分シェムリアップ寄りの所から、バイクが2台すれ違えないほどのあぜ道を50〜60m入っていくと、突きあたりに4、5軒の家があった。彼の家はその中で一番小さく質素な家だった。

 カンボジアの家屋は通常は高床式で、階下には、自転車やバイクを停めたり、牛・豚・鶏・犬などを飼ったり、ハンモックを吊るしてあったりする。洪水や虫・ネズミ対策のためだろう。屋根は経済的に余裕がある順に、瓦・板・かやぶき。彼の家は平屋で、屋根はかやぶき。日本語学校に来る学生の家庭は裕福とまではいかなくても、少なくとも今日・明日の食事を心配する家庭はないので、彼の家を見たとき、「あ、この方は、私がカンボジアで会った中で一番経済的に苦しい方かもしれない。」と思った。

ほほえむchuanさん

 Phaiさんのいとこの方はChuan(チュアン)さん。37才の温和な顔つきの男性だ。1983年、当時兵士だったChuanさんは、シェムリアップ州北東部のKouk Doang(ク ドーン)村で地雷を踏んだ。ベトナム軍の地雷らしい。すぐに仲間が病院へ搬送してくれたが、たどり着いたのは15時間後のことだった。そして彼は右足首から先を失った。政府からの補償は全くなかった。彼が20才のときのことである。

 その後彼は除隊し、家の仕事を手伝っている。定職はない。1990年、27才のとき結婚し、現在は12才の娘、8才の息子、2才の娘の3人の子供の父親だ。
 Handycaped Internationalから4年前に無償でもらった義足があるが、合わなくなってきており、付けると足が痛む。再手術をして調整すればいいのだが、手術費用の500ドルがないので無理だ。というような話をPhaiさんを通じて私の質問に答える形で、とつとつと話してくれた。Chuanさんも口数は多くないようだ。もう少しいろいろ話を伺いたいな、と思いつつ、ご家族や家の写真を撮らせていただいて、その日は失礼した。

chuanさん家族

 カンボジアに来るまであまり想像できなかったことなのだが、カンボジアの人達はとても写真が好きだ。それも人物、つまり自分や家族が写っている写真である。何かをしているところを撮るスナップ写真ではなく、カメラを向けると、身だしなみを整え、とびっきりの笑顔か、とてもきれいなおすまし顔を返してくれる。娘のクーイちゃんまた、誰かの家を訪問すると、必ず家族のアルバム(といっても日本では現像するともらえるような簡易ミニアルバム)を見せてくれる。そこで私は、いろいろ話を伺いたいなと思う方と会うときは初回にカメラを持っていき簡単に話をし、2回目には出来上がった写真を持って行って詳しい話を聞くことにしている。皆さん、写真を本当に喜んでくださるのだ。訪問者が多いはずの地雷被害者の作業所などでも同様である。話を聞いて写真を撮る人は多くても、再訪問して写真を届けてくれる人はたぶんほとんどいないのだろう。こんなとき、私は自分がカンボジアに住んでいて、三女のヌオンちゃんちょっと時間があるときに、いつでも訪問できることを、とても嬉しく思うのである。

 さて、私が写真を持ってChuanさん宅を再訪問したのは12月9日(土)である。今度は通訳として同行してくれたのは、実家が洪水の被害にあった学生だ。彼女はChuanさんの家へ行くのは初めてなのだが、Chuanさんの奥さんと女性同士色々な話をすぐに始めて、折にふれ、通訳してくれるので、とても助かった。良かった。今日は「質問&答え」以上の話ができそうだ。

 持ってきた写真を見せると、やっぱり非常に喜んでくださり、家族のアルバムを見せてくれた。これは誰?これは私の妹です。というようなたわいない会話を交わしているうちに、2才の娘さんと一緒に写っている女の子がいた。聞くと、Chuanさんの次女で、今年の洪水のとき(9月23日)に庭で溺れて亡くなったのだという。6才だったそうだが、カンボジアは数え年を使うので、もしかしたら、まだ5才の誕生日も迎えてなかったのかもしれない。Chuanさんご夫妻の顔が沈痛な表情に変わり、こちらも言葉を失った。

地平線まで水びたし

 ここは洪水で床上浸水しなかったのか?と問うと、ぎりぎりの所まででなんとか水は止まったそうだ。前回お邪魔したとき、家の周囲の田んぼは、彼の田んぼではないといっていたので、奥さんが、他の方の田んぼを手伝って生計を立てているのかと思ったら、何と、田んぼは、学生の実家のあるTatouk(タトーク)村の水田地帯にあるという。家から田んぼまで約40分、あぜ道を歩いて通うのだ。今年の稲は当然全滅。乾期にもう一度稲を作りたいが、種もみ代の50,000リエル(=12.5$=1400円)がないため、無理なのだ。(この他に買い付けに行く交通費や、田植えを手伝う人の謝礼もいる。)

 ここまで話を聞いて私は迷った。Chuanさんにお金をさしあげたほうがいいのかどうか。私は日頃から、困っている方々に「お金をあげる」ということに疑問を感じているからだ。「いつでもいいから、返してね。気長に待ってるね」(もちろん、返してもらうつもりはない)というスタンスでお金を出すほうがいいと考えている。「借りている」という意識があれば、たとえ私が出したお金が私の手元には戻ってこなくても、私が貸した人が、もっと困った人に出会ったとき、「私も困ったとき貸してもらったから・・・」と同じことを繰り返して、最終的にカンボジア人の間での相互扶助が成り立っていけばいいと思っているのだ。「困ったときはもらう」ではなく、「困ったときは借りる」の意識でいてほしいと考えている。

 しかし、Chuanさんは、お金を下さいと言ったわけではないし、話の流れで娘さんのことや、田んぼ全滅のことが出ただけである。種もみ代を貸すといっても、返すあてのないお金を借りることもしないだろう。乾期の米は日に日に乾いていく地表との競争である。種もみを買い、苗を育て、田植え。というスケジュールを考えると、迷っている時間はない。Tatouk村は既に苗ができ、田植えに入っているのに、Chuanさんはまだ種もみすら買ってないのだ。

 実際には考えていた時間は2、3秒だっただろう。私は、Chuanさんに種もみ代として$20さしあげた。今では、Chuanさんに「お金をあげた」のは間違ってなかった、と思う。頭の中で、どれほど色々考えても結局個々のケースで判断をするのは、直感に近いのかもしれない。と考えさせられた。

田植えのころ、またきますね。と言って失礼した。

シェムリアップより 中石恵子
2000年12月

 

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